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スウェデンボルグ⑥ 最後の審判 

$みんなが輝ける世界を作ろう☆-ミケランジェロ 最後の審判
 最後の審判というと、どのようなイメージを持たれるだろうか。
地球の最後、あるいは人類の滅亡を連想するかも知れない。ただ、ここで言う最後の審判とはそれとだいぶ違う。それに今までに最後の審判は三度起きているのだ。
 一回目がノアの洪水の直前、二回目がキリスト誕生直前、そして三回目が一七五七年の直前である。


①最後の審判とはどのような意味か
②なぜ最後の審判は霊界で行われるのか。
③最後の審判は霊界でどのように行われたのか。


 洪水の直前(一回目)、キリスト誕生直前(二回目)、一七五七年直前(三回目)という時期は、地上の人間界で腐敗堕落が長い間に渡って蓄積された結果、霊界のバランスも崩れていたのである。

①最後の審判とはどのような意味か
腐敗堕落に繋がる誤った信仰
 その特徴はある霊が私に話した次の言葉によく示されている。
「最近、霊界にやってくる霊の中には、自分では人間だった時に信仰心を持っていたと信じていた霊で、よく調べてみると信仰など持っていなかったことがわかるケースが多い」
 霊の世界は、人間の本当の姿が明らかになる世界だ。
誤った信仰の姿とはなにか。
 これら(帰幽したばかり)の霊が善行を無視し、ルターばりの表面上の信仰主義者だったからである。
 彼らが自分で信仰と信じていたものは本物ではなかったというわけだ。
 このような状況下で、霊界では地獄の勢力が増大するのは当然であろう。
天国と地獄のバランスを回復させるために行われるのが霊界での最後の審判なのである。
 最後の審判とは、それぞれの霊に霊界での最終的な住居地を振り当てることである。


②なぜ最後の審判は霊界で行われるのか。
 霊の最終的な振り分けは、霊の善悪高低などの性格的要素に応じて決められるため、霊の持つ本当の性格が明らかにされなければならない。
 人間であるうちは物質界に生きていて、物質的な肉体を持っている。
死ぬと、物質的な肉体を捨て、霊的肉体を持つに至る。物質的肉体はそれ自身は生きた存在ではなく、単に霊によって生かされている霊の道具に過ぎない。
 よって、霊の本質を判断する最後の審判の対象になるのは物質的肉体ではなく、霊的肉体となる。
 人は死後、霊的肉体をもつに至って、初めてその本質を明らかにする。
これが最後の審判が人間界ではなく、霊界だけで行われる理由である。

$みんなが輝ける世界を作ろう☆-スウェデンボルグ 霊界のしくみ
スウェデンボルグが語る 霊界のしくみ

③最後の審判は霊界でどこでどのような霊に対して行われるのか。ここが最も重要なことがらである。
 最後の審判は第一霊国において人間だった時に少なくとも表面上は善良な市民と見られていたような人々の霊に対して行われる。
 その上の天国の霊も下の地獄(幽界)の霊も、最後の審判の対象にはならない。彼らはすでに審判を受け終わった者たちだからだ。
 第一霊国が対象になるのは言わば雑居地帯だからである。
 第一霊国には天国、霊国を一緒にした天界の最下層に属する場所がある。
 そしてこの雑居地帯には次のような性質の人間だった霊が集まっている。
 人間だった時には表面的にも宗教的にも敬虔(けいけん)らしく振舞っていた。
しかし、その本質においてはそうではなかった。
 社会的にもモラルや法に適(かな)った生き方をし、正しい人間と見られていたが、本当に霊的な意味でそういえたか否か疑問があった。
 人間でいる時には世間の評判を気にしたり、或いは隠れた欲望を満たすために表面的には敬虔な人間の振りも、正義漢のフリもする。要するに、外面(そとづら)は装うわけである。しかし、その本質はその外面と同じとは限らない。このようなことは人間界ではごく普通にあることだ。
 つまり善か悪か灰色の霊たちが第一霊国に残る。
 また霊界では似た者同士が集まり生活しているため、彼らは自分たちの内面の本当の色がどんな色か気づかないままに過ごしている。
 最後の審判では、この雑居者たちが選別され、ある者は上の国(第二霊国)へ、ある者は下の国(第一地獄・第一幽界)へと送られる。

「そのような雑居で混沌とした第一霊国みたいな国が、なぜ存在しているのか。もっと早く整理や霊の仕分けをしたらいいではないか?」
 これはごもっともな疑問ではあるが、そいれだけの理由がある。
 第一に、彼らの中には単純な善良さを持った霊もいて、本来なら上の国へ行くべきところ、まだ第一霊国にとどまっている場合も多いということである。
 だからといって、彼らだけを時期も来ないのに引き離すのは多くの問題を起こす。また逆に、単純な善良さを持った霊と一緒に、すべての霊を上の国へ連れて行くことも問題を起こす。
『マタイ伝福音書』毒麦と毒のない麦の例えがあるが、これとよく似ている。
 両者が一緒に生えている時に、毒麦を抜き去ろうとすれば、いい麦もダメになってしまう。
 麦が実って茎が枯れてから仕分けをすればいいというのがこの例え話である。つまりものには時期があるというわけだ。

 次に、外面的な敬虔(けいけん)さ、正しさを持った者はある面で役に立つ場合もあるという理由による。
彼らは内面にはともかく、少なくとも口先での演説では得意な者が多い。
そして、彼の口で第一霊国にいる単純な善良さを持った霊たちを教育する。
 つまり彼らが宗教や天国、地獄のことを話したりするお陰で、単純な善良さを持った霊たちが自分で本当の心理を探り出すことが出来るのだ。
 単純な善良さを持った者たちは、最終的には天国に行く者たちだが、その前にいろいろな真理を学んでおくことは彼らにとって無駄ではない。
これがある時期までは審判を留保されている理由である。

次に一七五七年に起こった第三回目の最後の審判について述べるが、それを述べるうえでも最も判りやすい例は、バビロン崩壊だろう。



口王仁三郎とスエーデンボルグ 最後の審判
http://www.geocities.jp/susano567miroku/hongi.html


 偽善者、偽政者ほど口が巧い。
真実を隠すため、本性を悟られまいと、尚更言葉巧みになるから雄弁家が多い。
そして綺麗言も多く語り、自分の支持者を増やそうと躍起になる。
疑い深く、計算高い人は頭もズル賢い。
選挙シーズンになるとこういう人達を毎日見ることになる。
 人前に出る芸能人などの人気商売もまたお行儀良くしなければならない。その分マスコミに虐められバッシングされたりと辛い思いもしている。
政治家だけではない。宗教家もまた言葉巧みに勧誘し人を欺く。
 スピリチュアルを語り、ヒーラーを語り、霊能者を語り神様を語る偽者の中には、色々と様々な本を読みあさり勉強したのだろう、知識豊富な者も多い。
 なるほど、語る言葉もなかなか受け売りな分、もっともないい事を言う。
ブログでも多く目にする。
 私など足元にも及ばない。その人達に比べれば私のブログなど小学生の日記レベルだ。
また偽善者はターゲットの耳に聞こえのいい事を言う。
ターゲットを心地良くするための言葉を語るから、甘い言葉に人々は集まる。
そもそも、言って欲しい事を言ってくれる所へ人は集まっている。
騙すほうは瞬時にそれを看破し、ターゲットを落とす。
もっともな善を語り、人々の心を捉えた頃合いを見計らって、独特な教義を語り始める。
不安と恐怖を煽り、自分たちの都合のよい戒律を擦り込み洗脳して行く。
偽善者は偽善者と集まりやすい。そして都合の良い善を語り、お互いを褒め立てる。
偽善の魔が入り込む。偽善の集団は独特の妖しい雰囲気を持つ。
見たこともない神様を見たと語り、聞いたこともない神の声を聞いたと語り、または感じたと語っても、出てくる話しは本や他人から得た2次的3次的情報に多少オリジナルの脚色を加えたもらいもの情報ばかり。
そもそも自ら体験し、体得したものではないから、どうしても言葉尻り、理屈に囚われ理屈の迷路に陥りやすい。
判らないことを知ったかしているのだから無理もない。
ただ、ブログで書くくらいならまだ可愛い。
問題なのは、それで多くの人を騙してビジネスにしているということだ。
偽物が神様を語り、金儲けまでしている事は罪が深い。
ひとを心から騙し、欺き洗脳して神の理(みち)、人の理(みち)を邪魔している上、金まで捲き上げているのだから、かなり大きな負のメグリを作っていることになる。
 詐欺を実行しているのだから、そもそもこの人達には信仰心なんてものはない。
あったら恐れ多くてこんな欺きは出来ない。
神様なんてなんとも思っていないのだろう。
それでも、単純で純粋な善の心を持つ人達は、それら偽善からも学び、或いは悟るキッカケ得て、心がキレイな分真理へ近づくのに役立っているとういう。
 これはよくわかる。参考になる部分は取り入れ、嘘だと見抜けば捨てましょう。
審神(サニワ)の目を忘れてはいけません。
偽善の魔に魅入られて、とり憑かれないようにしましょう。
特に宗教家は偽善の魔者だらけだ。

ちなみに、私は霊感まったくないです。パワースポットと呼ばれる場所へ居ても全く何も感じません。自分の考えを押し付けたり、ひとを欺いたりメシアぶったりするつもりはありません。
 それでも、私の下手くそなブログも、単純で純粋な善の心を持つ人達、地(くに)の日月の民の御役に立てればお金が入らなくとも、これ幸いです。
 そして、世の中の曇りを少しでも取り除けたらという願いもあります。
刺(とげ)のあるブログで不快に感じる人もいるかも知れませんが、素直な気持ちを書いてます。
不愉快に思ったら申し訳ありません。
ごめんなさい。