病院からの帰り道、父が事故にあった車を代々木警察から引き取り、その車を運転していた私に造園業の職人長から声をかけられた。

 「ひろこちゃん、社長をやってくれないか」と。私は驚いた。植木屋の社長?思ってもみなかった。職人長は仕事は抜きんでてできる人だったが運転免許を持っていなかった。だから、運転できる私が必要だったんだろう。「社長の分の他の仕事は俺が全部やる。手伝い程度でいいから、この職場をあきらめないでほしいんだ。」と真面目な表情で、真剣に言われた。私は、どうしていいかわからず「少し考えさせてほしい」と答えた。職人長は私が生まれたころから働いている人だ。私が大人になっていく様子も、看護師をしていたこともよく知っている。さらに言うとトラックが運転できることも、父に性格が似ていることも。

 最終的に私は求められて仕事することが流れとしてはいいのだろうと、抗うことはなくそのまま受け入れようと思い、引き受けた。2月のことだったので年度内だけ(3月末まで)という約束で。

 40年世田谷で造園業をやっていた父の穴は業界にとってもかなり響いたようだ。そしてその娘が引き継ぐらしいといううわさもすぐに広まった。来年度の発注の話もぞくぞくやってきて、お葬式ののち1週間以内には、来年度のことを決めなければならない状況になった。スーツを着た、ゼネコンの人たちが頭を下げて、うちにやってくる。うちの事務所なんて木造平屋の古くて土臭いところなのだが、そこへいろんな人が訪ねてくる。そしてどうしても事業を継続してほしいという。銀行もしかり。これでやめないでほしい、どうにか続けてほしいと言ってきた。

 仕方なく翌年度の工事を受注した。数千万円単位の工事なんて引き受けられるのか?と思ったが、当時はことの大きさがよくわかっていなかったので、そのまま引き受けた。

 私は4人きょうだいの末っ子だ。兄が一人いるが、遠方に住んでいるうえ、造園業には興味がなかったようだ。一番上の姉が手伝うと言ってくれた。私は生後間もない息子を姉に預けて、仕事を始めた。4月からは保育園にも預けることができたので、姉も事務を手伝ってくれるようになった。母は父を喪失した感覚がまだ持てないようで、父のお弁当箱にいつもお弁当を詰めていた。「40年作り続けたのに、急にはやめられない」と言っていた。私は父のお弁当を毎日父に代わって食べた。アルミの四角い大きいお弁当だ。

 そういえば、父とお弁当という話題で思い出す逸話がある。ある日父が仕事中に、トラックの運転席に置いていたお弁当が盗まれたという話だ。父はそのとき、とても怒っていた。「なんで、お弁当を盗むんだ。盗むなら金目(かねめ)のものをもっていけばいいのに、お弁当なんだぜ。うちのお母さんが作ってくれたお弁当、俺がお昼に食べようと思って大切にしてたのに。なんてひどい奴なんだ!」と言っていた。お金よりも母の作ったお弁当が父にとっては大切なものなんだなということが強烈な印象として残った。

 だから私は、父の死後もお弁当を作る母の気持ちとそれを楽しみに食べる父の気持ちを感じ、そのつながりを私が続けていかなくては、という気持ちでいっぱいだった。父の仕事の席に座り、父のトラックに乗って、お弁当を食べ、父の仕事仲間の人たちと仕事をした。

 父がそれぞれの人とどういう付き合いをしていたのかとてもよくわかった。実直で、でもある程度いい加減で、どんな仕事も断らないやさしさがそこにはあった。みんなが父のことを好きだったんだということを感じなおす体験だった。私の知らない父の姿だが、好かれていることは伝わってきた。そしてみんな私が父と同じ苗字で電話に出ることで安心を感じているようだった。

 造園業会で、女性は珍しい。しかも代表者が女性、というのはかなり稀だ。おじさんが多数を占める業界の中で35歳の私が立ち振る舞っているのは、どう見えたのだろう。

 3年後第2子の妊娠とともに、造園業は一次発注業者に引き取ってもらう(吸収合併)ことにした。平均70歳くらいの職人さんを全員引き取ってもらう(誰一人として辞めさせないでほしい)ということが私の条件だった。それ以外は、なんでもよかった。

 

 私は、父の代理を務めることで、生前の父をたくさん知ることができた。こういうときって悲しさとか喪失感とか感じるものではないだろうか、と時々自分を振り返って責めていた。しかし、私と父には楽しい思い出しかない。だから、父の代わりを務めていると、父が隣で見ているようでさみしくなかった。大好きだからこそ、さみしくないんだなと思った。そして、今は、喪失感以上に父が私に残してくれたものが大きかったんだということがわかる。いまでも父はいつも私のそばにいるような気がする。