無反省ぶりを明白に示した朝日新聞の社説を斬る! | 岐路に立つ日本を考える

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 私は日本を世界に誇ることのできる素晴らしい国だと思っていますが、残念ながらこの思いはまだ多くの国民の共通の考えとはなっていないようです。
 日本の抱えている問題について自分なりの見解を表明しながら、この思いを広げていきたいと思っています。


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 朝日新聞が「大学への脅迫―暴力は、許さない」という社説(平成26年10月2日)を掲載したのは、ご存知の方も多いかと思います。今回はこの朝日新聞の社説について取り上げてみようと思います。

 朝日新聞の社説の冒頭は以下のような文章から始まります。

 自由にものを言う。
 学びたいことを学ぶ。
 それらを暴力によって押しつぶそうとする行為を、許すわけにはいかない。


 確かに以上は一見正論に見えます。しかし、言論にも学問にも真理に対して謙虚でなければならないという前提があります。真理を無視してイデオロギーでものごとを語るというのは、言論の世界でも学問の世界でも許されるものではありません。真理に対して謙虚であるという前提を守った上でならば、「自由にものを言う」権利はあるでしょうし、それは当然最大限守られなければなりません。しかし、それを破る人間に、そしてそれを守らない組織に、虚偽にまみれた話を自由に語る資格などあるはずもありません。その前提について、朝日新聞はどう考えているのか、糾したいところです。

 確かに朝日新聞は自らの見解を広めることにライフルなどを持ち出したということはないでしょう。しかしながら、大手マスコミというのは国民の世論の形成においてそうした武力さえ上回る強大な力を持っているのであり、そうした力を思うがままに利用して、真理に対して謙虚であろうとする人間を迫害し、そうした人たちの意見を排除してきたことをどう総括するつもりなのでしょうか。

 さて、朝日新聞の社説はさらに以下のように続きます。

 かつて慰安婦報道に関わった元朝日新聞記者が教授を務める帝塚山学院大(大阪狭山市)に9月、別の元記者が非常勤講師を務める北星学園大(札幌市)には5月と7月、それぞれの退職を要求し、応じなければ学生に危害を加えるという趣旨の脅迫文が届いた。警察が威力業務妨害の疑いで調べている。
 「辞めさせなければ学生に痛い目に遭ってもらう。釘を入れたガス爆弾を爆発させる」
 「元記者を辞めさせなければ天誅(てんちゅう)として学生を痛めつける」
 北星学園大には、「爆弾を仕掛ける」という内容の電話もあったという。
 攻撃の対象は元記者本人にとどまらない。家族までもがネット上に顔写真や実名をさらされ、「自殺するまで追い込むしかない」「日本から出て行け」などと書き込まれた。


 確かにこれについても正論だといえるところがあります。「学生に痛い目に遭ってもらう。釘を入れたガス爆弾を爆発させる」とか「天誅として学生を痛めつける」とか「爆弾を仕掛ける」というのは当然言語道断です。このような脅迫を行った人物については、しっかりとした捜査を行った上でしかるべき処罰を加えるベキだとも思います。

 しかしながら、その一方でもう1つ考えてもらいたいことがあります。事実かどうかの検証も行わず、事実とは全く違うことを自社の記者に書き連ねることを許してきたことは、もちろん朝日新聞自身の大きな問題ですが、それと同時に、それに甘えて自分のイデオロギーを優先して事実と異なることを平気で書き連ねてきた記者自身の責任も、当然問われるべきものだとはいえないでしょうか。そのような人間が真理を何よりも重んじなければならない学問の府で仕事をすることなど、許されるべきものではないはずです。つまり、脅迫めいた文言の是非は問われるべきであるものの、大学で教える資格がないから辞めるべきだという核心部分の主張には、何の無理もないはずです。脅迫が行われていることのみを問題視して、このような本質的な問題が論点化されることから逃げようとしているのが、この朝日新聞の社説ではないかと考えます。そもそもこのような脅迫自体が自作自演の可能性にしても、現時点では排除できないでしょう。(念のためですが、私は自作自演だと決めつけているわけではありません。)

 さて、朝日新聞の社説はさらに以下のように続きます。

 朝日新聞は8月、過去の慰安婦報道について、女性を強制連行したと証言した吉田清治氏(故人)に関する記事を取り消した。間違った記事を掲載してしまったことに対して多くの批判が寄せられており、真摯(しんし)に受け止めている。
 しかし、だからといって学生を「人質」に、気に入らない相手や、自分と異なる考えを持つ者を力ずくで排除しようとする、そんな卑劣な行いを座視するわけにはいかない。このようなことを放任していては、民主主義社会の土台が掘り崩されてしまうだろう。


 言わずもがなですが、吉田清治証言の虚偽を長年放置し続けてきたことについて真摯に受け止めているのであれば、こんな社説は書かないでしょう。虚偽を書き連ねてきた元記者が学問の府で真実を無視してイデオロギーでものごとを語ることに何の問題も感じていないからこそ、このような社説を書いているわけです。真実を無視してイデオロギーでものごとを語るような人間が学問の府から消えていくことは、健全な民主主義の成長にとって好ましいこととは言えても、民主主義の土台を掘り崩すような話ではないはずです。ところが朝日新聞はまったくそうだとは考えていない…ここに朝日新聞の病理が如実に表れているとはいえないでしょうか。

 さて、朝日新聞の社説はさらに以下のように続きます。

 「反日朝日は五十年前にかえれ」。1987年5月3日、朝日新聞阪神支局に男が押し入り散弾銃を発砲、記者1人が殺害された。犯行声明に使われた「反日」は、当時はあまり耳慣れない言葉だった。
 あれから27年。ネットや雑誌には「反日」「売国奴」「国賊」などの言葉が平然と躍っている。社会はますます寛容さを失い、異なる価値観に対して攻撃的になってはいないか。


 阪神支局の事件が許されない暴力事件であったことは言うまでもないでしょう。しかしながら、このように書きながら、異なる価値観に対してこれまでの朝日新聞には許容性があったのでしょうか。吉田証言が虚偽だという話は何度も言われてきたことでありながら、そういう意見をついぞ取り上げることをしなかったのが朝日新聞ではなかったでしょうか。ようやく朝日新聞的な見解とは別の見解が、主としてインターネットを通じて人々が知るようになってきたというのが現実ではないでしょうか。人々が朝日新聞とは異なる価値観に基づく情報に知ることがようやく容易になってきて、真実を見いだせるようになってきたから、いかに朝日新聞の報道が歪んだ価値観に基づいているかがばれてきたのが実際です。その中で、朝日新聞やそれに類する日本のマスメディアに対するだまされてきたという怒りが表明されるに至っているのが実情ではないでしょうか。真実がわかってきたら、朝日新聞に対する寛容性など失われるのが当然であり、朝日新聞の持つ価値観に対して不寛容になるのも当然だとはいえないでしょうか。真実に対して謙虚であるという立場が守られているのであれば、その中で生まれる異なる価値観に対しては最大限の尊重がなされるべきです。しかしながら、虚偽にまみれた価値観に対して攻撃的になるのは当然のことでしょう。

 さて、朝日新聞の社説は最後に以下のように続きます。

 意見を述べ合い、批判し合う自由こそが社会を強く、豊かにする。戦後約70年をかけて日本が築きあげてきた、多様な言論や価値観が交錯する社会を守りたい、暴力に屈することのない社会をつくっていきたいと、改めて思う。
 朝日新聞への批判から逃げるつもりはない。しかし、暴力は許さないという思いは共にしてほしい。この社会の、ひとりひとりの自由を守るために。


 「意見を述べ合い、批判し合う自由こそが社会を強く、豊かにする」のは確かでしょう。しかしそれには「真理に対して謙虚である」という前提を共有しての話であることを、再度述べておきたいところです。さらに「多様な言論や価値観が交錯する社会」を排除してきたのが朝日新聞であるということを棚に上げて、一体何を言っているのかと思うのは私だけではないでしょうか。「批判から逃げるつもりはない」と言いつつも、本来問われるべき論点をすり替えて自己弁護に終始しているというのはどういうことでしょうか。「この社会の、ひとりひとりの自由を守るために」「暴力は許さないという思い」は私も共にしたいところですが、朝日新聞自らが人の生死を左右できるほどの、一種の暴力を備えた機関であるという自覚はあるのでしょうか。そうした力を備えているゆえに真理に対して謙虚でなくてはならないですし、多様な見解を広く平等に紹介する社会的な要請も受けている存在でもあるはずです。その本来あるべき姿から背を向け続けてきていながら、その点に対する反省が未だにないのが朝日新聞であるということを、この社説はまさに物語っているものだと私は思います。


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