韓国政府対応と明治時代の征韓論 | 岐路に立つ日本を考える

岐路に立つ日本を考える

 私は日本を世界に誇ることのできる素晴らしい国だと思っていますが、残念ながらこの思いはまだ多くの国民の共通の考えとはなっていないようです。
 日本の抱えている問題について自分なりの見解を表明しながら、この思いを広げていきたいと思っています。

 李明博大統領をはじめとする韓国政界人から、度重なる礼を失した態度を、我々日本国民は受けました。そして、日本国内ではこうした非礼に対する反発が沸き起こっています。「歴史は繰り返す」とはよくいいますが、明治時代の初めに同様のことがありました。

 明治元年に日本に誕生した新政府は朝鮮に使節を送り、新たな国交と通商を求めました。この時に日本政府が作成した書状である「皇政維新の書契」を、朝鮮政府は頑として受け取りを拒否しました。

 「皇政維新」という文字に見られるように、この文書には当たり前に「皇」の字が使われているわけですが、これがけしからんといった反発を喰らったわけです。「皇」の字が使えるのは中国の皇帝だけだというようなことを、いろいろといわれました。

 当時朝鮮は清国の属国でしたので、清国と対等であるかのように日本を遇することは、清国が怖くてできなかったということもあるかもしれません。ですが、それ以上に、中国を世界の中心だと考え、中国から離れるに従ってどんどん野蛮になっていくと考える中華思想に染まっていたため、日本より自国の方が格が上だという意識があったということが大きかったのです。そんな格下であるべき日本が自国より格上にある清国と対等の顔をすること自体が許せないことだったわけです。

 江戸時代における幕府の将軍は「皇」ではなく「王」でよかったのです。日本には天皇陛下がおられましたので、将軍を表現するのに「日王」と言っても問題はほとんどなく、むしろ「皇」の字を使うわけにはいきませんでした。これであれば、中華思想的には問題が生じなかったのですが、明治政府となっては「皇」の字を使わないというわけには当然いきません。聖徳太子の時代より日本の天皇陛下は中国の皇帝と対等な立場を表明してきた歴史もあり、陛下が「皇」ではなく「王」として扱われるというのは、日本として受け入れることのできないことでした。独立した国家が自国のトップを何と呼ぼうが勝手ではないか、なぜ中国を頂点とし、自国を一番蛮族であると認める中華思想に、日本も加わらないといけないのか、という気持ちは当然のことだったでしょう。

 これを朝鮮側から見れば、格下の分際なのに、頑なに態度を変えない日本はけしからんということになっていたわけです。そのため日本の海難事故の漂流民を保護しないとか、貿易制限を行うとか、江戸時代から朝鮮に置かれている日本の公館の門に「無法の国、恥知らず」といった張り紙を貼り付けるとか、いろいろと日本側を怒らせることを行ってきたわけです。こんな不正常なことが続き、国交が樹立できない状態が、何と7年余りも続きました。

 自分の方を格上だと考え、日本の方を格下に見ようとする朝鮮側の態度に、各地から「無礼だ」「屈辱だ」という建白書が明治政府に届いていきます。そこで、「あんな無礼な国は許せない。軍隊を送って成敗せよ」と言いだす者もいれば、「そんなことができるような財政状況にはない。清国に援軍を頼まれたらどうするんだ」などと反論する者もいるという議論が沸き起こりました。これが当時の「征韓論論争」です。

 このように読んできて、まさに今同じ事態が繰り返されているとは感じないでしょうか。今回も韓国は上から目線で、首相から送られた親書を送り返す、陛下に対する侮辱を行って謝らないなど、我が国に対する非礼な態度をとり続けています。天皇陛下を「天皇」とは呼ばずに「日王」と呼ぶのも、華夷秩序(中華思想)に基づく優越思想が今なお消えていないためでしょう。

 ただ、ものは考えようで、明治初年の先祖の気持ちを現代の我々も同様に実感できるというのは、歴史を実感できるという点ではよい経験かもしれません。当時の征韓論が朝鮮に対する侮蔑意識から生まれたものではなく、また植民地にしてやろうという征服欲から生まれたものでもなく、むしろ朝鮮の側からの侮蔑的態度に対する怒りから生じたものだということを、これを機会に体感して理解しておきたいところです。