YUZU DAYS 掲載年月
第1回~第8回(2015年6月~2016年4月)
第9回~第16回(2016年6月~2017年8月)
第17回~第23回(2017年11月~2018年10月)
第24回~第31回(2018年10月2019年2月)
第32回~第35回(2019年3月~2019年6月)

第1回 2015年6月

第1回:ファンタジー・オン・アイス2015羽生選手インタビュー

 


「ファンタジー・オン・アイス」は「伝説のアイスショー」ともいわれる豪華絢爛なエンタテインメントです。
今年は幕張、静岡、金沢、神戸の4会場でショーを開催。その皮切りとなる幕張公演(5/29〜31)を終えたばかりの羽生結弦選手にインタビューしました。

羽生選手が語ってくれた
アイスショーならではの楽しさ

世界の一流スケーターたちが一堂に会する「ファンタジー・オン・アイス」。日本からは織田信成、安藤美姫、鈴木明子、宇野昌磨、世界からはプルシェンコ、フェルナンデス、ランビエルといったスターたちが次々と華麗な演技を披露するなかで、大トリのグランド・フィナーレを務めたのが羽生結弦選手でした。情感あふれるエモーショナルな演技に観客の目は釘づけ。演技が終わった途端、ひときわ大きな喝采が鳴り響き、満員の会場全体が大きな感動に包まれました。最後には4回転ループに挑戦するパフォーマンスもあり、会場を大いに沸かせてくれました。熱気と興奮が冷めやらぬ幕張メッセイベントホールにて羽生選手に直接お話を聞くことができました。

羽生選手インタビュー

昨年もこの幕張公演に出演されていますが、そのときのことは覚えていますか?

羽生選手:「昨年の幕張では郷ひろみさんとのコラボレーションということで、かなり緊張していたのを覚えています。とにかく歌詞の意味もしっかり噛みしめながら演技をすることができたと思います。」

昨年の「ファンタジー・オン・アイス2014」幕張公演ではスペシャルゲストとして郷ひろみさんが登場。郷さんがライブで歌うバラードに合わせて、羽生選手が演技を披露して会場を沸かせました。
今年の幕張公演でも、スペシャルゲストのR&Bシンガー、シェネルさんとのコラボレーションで、素晴らしいスケーティングを見せてくれた羽生選手でした。

幕張公演の3日間はどんな思いを込めて演技をされましたか?

羽生選手:「演技の最初から最後まで感情をフルに出して演技するよう心がけました。感情をいっぱい込めて滑ることは僕も大好きなので、とても幸せな時間だったと思います。」

4回転ループに果敢に挑む姿が印象的だった幕張公演。アイスショーでもチャレンジする姿勢を忘れない羽生選手らしい真摯な演技が会場を大いに魅了しました。

ファンのみなさんに、ひとことメッセージをお願いできますか?

羽生選手:「みなさんと一緒に楽しみ、一緒に曲に浸り、みなさんとの一瞬一瞬を感じながら、幸せを噛みしめながら滑らせていただきました。」

ファンを大切にする羽生選手らしい素敵なコメントをいただきました。どうもありがとうございました。











第2回 2015年7月31日

【第2回:羽生選手が語る、成長の軌跡[幼年〜ジュニア編]

 
4才の頃にフィギュアスケートを始めた羽生選手。無我夢中でスケートを楽しんでいた幼年時代から一流のアスリートへと成長していく日々を、「成長の軌跡」として全3回にわたってお届けします。1回目では、スケートを始めたきっかけからジュニア時代までの歩みを、学校での思い出や家族とのエピソードを交えながら振り返っていただきました。

yuzu-days-1507

羽生選手インタビュー

フィギュアスケートとの出会い

-今や日本、ひいては世界を代表するフィギュアスケート選手となった羽生選手。スケートを始めたきっかけやその当時のエピソードを語っていただきました。

きっかけもライバルも、姉でした

フィギュアスケートを始めたきっかけは、姉がやっていたから。当時は姉がやることには何でもついて行っていましたし、全部真似していました。その流れで、姉が通っていたスケート教室に入りました。当時4歳の僕にとって、4才年上の姉は絶対的な憧れの存在であると同時に、勝手にライバルと思って、いつか抜かそう!と思っていました。姉はなんとも思ってなかったと思いますけどね。姉を追いかけてやっているうちに、自然と引き込まれていったんだと思います。

難しかったからこそ、
夢中になったんだと思う

当時は無我夢中になって練習していたのですが、スケートの魅力は何となくわかっていた気がします。スケートは非日常なものであって、普段歩くスピード以上の早さが出るし、ジャンプもスピンも陸上では考えられないような動きができる。そして、それが難しかったからこそ僕は夢中になれたと思います。

その頃から、目標は金メダル!

僕はとにかく負けず嫌い。実はもうその頃から“オリンピックに2回出て、2回とも金メダルを取る!”といつも母に言っていました。母は「なんでそんな自信があるの?」って、あきれていたみたいです。学校でも学芸会では主人公になりたいタイプ。だから、練習は嫌だったけれど、みんなが見てくれる試合は大好きでした。リンクをひとりじめして、みんなに見てもらえている緊張感が、ものすごく好きでした。

家族の支えとともに、 
歩んできた奇跡

-6歳の時に出場した大会で初優勝。その後も数々の大会で頭角を現し、15歳の時には日本男子史上初の、中学生での世界ジュニア選手権金メダルという快挙を成し遂げます。瞬く間に才能を開花させていった年月は、羽生選手、そしてご家族にとってどんな日々だったのでしょうか。

しょっちゅう、やめたいと思っていた

小さい頃、練習は大嫌いでした。基本的につまらないものだし、怒られるし、怒られて泣くので、いつもリンクから追い出されていました。最後まで練習ができたためしがないんじゃないかなっていうくらい。それに、小学生になるとフィギュアスケートをやっている男の子ってあまりいないんですよね。野球やサッカーをやっている子ばかりで。父が野球をやっていたので自分も野球やりたいなっという思いもすごくあって、しょっちゅうやめたいと言っていました。

負けず嫌いだから、
やめなかったんだと思う

「スケートやめたい」って両親に言うと、いつも「じゃ、やめれば」「野球やれば」とあっさり言われるんです。決して嫌味ではないんですが、僕も負けず嫌いなので諦めきれなくなって。それに両親は、好きじゃないものを押しつけるのでなく“好きかどうか、やりたいかどうか”を大事にしてくれました。それが一番のサポートだったと思っています。いつもその言葉があったからやめなかった。つまり“やっぱりスケートが好きだったから”だと思います。

両親の支えがあったから、
ここまでやってこられた

もちろん、両親の日々のサポートなくしては続けられなかったと思っています。母はほぼ毎日送り迎えをしてくれたし、近所のリンクが閉鎖して遠くまで通うようになった時は、父も送り迎えをしてくれました。衣装を作ってくれていたのも母です。最初の試合からシニア1年目までずっと。洋裁を習ったこともないのに、型紙から作ってくれて。当時は仮縫いのためにじっとさせられていたりして、面倒くさいなあ、なんて思っていましたが(笑)、今思うとすごく支えられていたんだなと思います。 今でも、フィギュアスケーターとしての羽生結弦でもあるけれども、やっぱり一人の人間というか、「羽生家に生まれた結弦」というところも大切にしていきたいと思っています。

リンクの外での、子供時代の素顔

-家族とともにスケートに捧げた日々。スケート以外の時間は、どんな風に過ごされていたのでしょうか。学校での勉強や、遊びの時間のエピソードについても話していただきました。

練習以外の時間で、
思いっ切り遊んでいました

とても活発だったと思います。勉強は、始めるとハマるタイプなんですけど、国語は苦手でした。歴史や科学、数学だとかそういうのは好きでした。国語だけは、自分の中で納得できる点数は取れなかったです(笑)。放課後はランドセル背負ったままリンクに通っていたので、その分、朝や昼休みだとか休み時間にドッジボールをしたり、目一杯遊んでいた記憶があります。学校で遊んでいたという感じです(笑)。

羽生結弦選手 ジュニア時代の成長と歩み

4才 
姉の影響でスケートをはじめる
6才 
千葉の「ダイエーカップ」で初優勝
10才 
近所のホームリンクが経営難で閉鎖
13才 
全日本ジュニア選手権初優勝
14才 
全日本ジュニア選手権2連覇
15才 
世界ジュニア選手権優勝、シニアデビュー