羽生くんのお誕生日の日に、在バンクーバーの日本総領事館が上げてくれたTwitter動画を書き起こしましたニコニコ

カナダと自分の繋がりや、カナダと日本の魅力などについての質問に答えています。

英語の字幕がついていますが、最初の一言以外は全て日本語でのインタビューとなっています。


Happy birthday Hanyu-san!




羽生(英語で)「JAPAN, CANADA AND ME」 






羽生「僕を通してこうやって、えー、ちょっとでもその日本とカナダのその絆、その90年っていうものを少しでも感じて頂いて、またその日本とカナダのその交流っていうものがもっと深まって行ったらいいなっていう風に思ってます」
 









羽生「とにかくスケートっていうものが僕とカナダの繋がりかなと思っています。何よりもここを選んだ理由は、やはりスケートがいい…スケートに対してすごくいい環境であったからこそだし。ここにいるブライアン・オーサーさんだとかそういったカナダの名選手とともに、えー、こうやって僕がそのカナダのスケート技術を受け継いだりとかそういった意味でもすごくカナダとの絆っていうものを毎日感じています」





羽生「特にこのトロントっていう意味では、その住宅街の中でも自然がいっぱいあって、あの、山もね、そんなにいっぱいあるわけではないのでそのどこからでも自然の豊かさがずーっと見渡せる。それは本当にカナダの素晴らしいところだなあって思います」
 





羽生「そのー、伝統的な民族がいて、で、色んなその民族独特の踊りとかまたはちょっとした訛りとかも色々あったりして、そういった地域ひとつひとつのその歴史の深いところっていうのが日本の魅力かなあって思います」







    ☆☆☆☆☆☆

今年は、日本とカナダが国交を結んで90年の記念の年なんですねニコニコ

カナダと日本と言えば、キーガン・メッシング選手が日本人の血を引いているというのはびっくりしましたびっくり


「僕の高祖父は、永野万蔵といって日系カナダ移民第一号に認定された人です」





生涯編集

1855年(安政2年)、肥前国高来郡口之津村(現・長崎県南島原市)に生まれる。少年時には石炭運搬船で働いていたとも、大工の見習いをしていたともいう。のちにイギリス船に乗り組むようになった。

1877年(明治10年)5月、ブリティッシュコロンビア州ニューウェストミンスターで船を降り、カナダに密入国。フレーザー川で鮭漁の漁師として働き、のちにはバンクーバーで木材を船に積み込む仕事をはじめた。1884年に日本へ一旦帰国したのち、アメリカ合衆国シアトルに渡ってタバコ屋と食堂を始めた。1892年にはカナダに戻り、ブリティッシュコロンビア州の州都ビクトリアでホテルと店舗を開き、塩鮭の加工・輸出会社を設立して成功を収めた。しかし晩年は結核を患った上、1922年に火事で全財産を失い、夫人とともに日本に帰国した。

1924年(大正13年)5月21日没、享年70。墓所は郷里である南島原市口之津町の太月山玉峰寺にある。

顕彰編集

日系カナダ人社会では、永野を日本人移民第一号とし、その移住の年を記念している。1977年には移住百周年が祝われた。

オウェキノ湖(Owikeno Lake)の近くには、彼にちなんだマンゾウ・ナガノ山(Mount Manzo Nagano)がある。これは、1977年にカナダ地名常設委員会[1]が移住百周年を記念して名づけたものである。


(Wikipediaより)





100年も前に外国に行って暮らしを立てようという行動力がすごいですね。

今だって急に外国に行って暮らすとなると色々考えてしまうと思うのに。

羽生くんも17歳でカナダに渡る事を決めた時は、頭が痛くなるぐらい悩んだって言ってました。

言葉も習慣も違うところで暮らすのは最初は大変ですよね。

でも、カナダに行く選択は正解でした。

最近は英語も上手になって、これで困る事はありませんね。


私は、カナダと言えば「赤毛のアン」や「アンジェリク」の舞台という印象があります。自然が豊かで美しいところというイメージで憧れの地です。

そして、羽生くんの第二の故郷。

トロントがどんなところなのか、そこで暮らす羽生くんが見ている景色がどんな風なのか、1度訪れてみたいと思うんですけど、その夢が叶う日は来るのかな~~( ̄0 ̄;)





◆写真は動画からありがたくスクショさせて頂きました。
キーガン・メッシング選手のはテレビを撮しました。