今日は3月11日です。あの日から七年がたちました。


16歳で被災した羽生選手は、自らの夢に被災地の思いも背負い、
2度のオリンピック金メダリストとなりました。


2月19日の日刊スポーツで福島県いわき市の遠藤さんが「羽生くんの頑張りに泣き崩れた。ありがとうと伝えてほしい」とコメントを寄せています。
遠藤さんは、2015年の6月、羽生くんが福島県富岡町を訊ねた時、除染廃棄物が入ったフレコンバッグを一緒に見て、町の現状を説明して下さった方です。




【2015/8/21放送 every 】より



遠藤さん「どんどん水かさが増して「高波来るから逃げろ」って。今でも鮮明に覚えてますよね。忘れられないですよね。あの瞬間あの日々っていうのはね」



羽生「僕も鮮明に、何がどうなって、こうなってってこうなったっていうのは全部分かります」



羽生くんが避難した学校


避難した当時、羽生くんが自分で撮影した避難所の様子








羽生結弦の金に感謝 福島原発事故の語り部遠藤さん
https://www.nikkansports.com/general/nikkan/news/201802190000117.html
[2018年2月19日9時5分 ] 

 東京電力福島第1原発事故の被災地も、平昌五輪(ピョンチャンオリンピック)フィギュアスケート男子の羽生結弦(23)の金メダルに元気をもらった。連覇から一夜明けた18日、福島県いわき市在住の遠藤義之さん(45)が日刊スポーツに連絡。「結弦くんの頑張りに泣き崩れた。ありがとうと伝えてほしい」と訴えた。昨年4月、一部を除いて避難指示が解除された富岡町から避難中。原発から約7キロにある自宅は、放射線量が高い帰還困難区域にあり、震災後7年の今も戻れない。

 羽生はソチオリンピック(五輪)の翌15年6月、原発事故の現状を見に、同市や広野町を訪れた。除染廃棄物を入れた黒いフレコンバッグが大量に置かれた現場、津波被災地域を見て回った。遠藤さんは語り部活動をしている関係で、羽生に同行。その時を「彼も被災地仙台出身。何か『被災地のために』という思いが強く、いろんなものを背負いすぎている印象だった」と振り返った。

 その夏、羽生から都内のアイスショーに招かれた。震災後、妻子は都内で暮らし、半年に1度しか会えないため、久々の家族だんらん。演技後、羽生から「遠藤さん、待っていてください。写真を一緒に撮りましょう」と言われた。
 今回の羽生の金メダルに「本当に勇気づけられた。未来への力になった」と感謝した。【三須一紀】

 



震災時のニュースを上げて下さっています。非常に貴重なものです。


ねこおじさんのTwitter
(震災時のニュース動画)



アナウンサー
東日本大震災特別番組を宮城県の皆さまに向けて、仙台からお伝えしております。皆さまの切実な声、メールで頂いております。どんな事でも結構です。時間が許す限りご紹介して参ります。




まず1通ご紹介します。泉区にありますアイスリンク仙台です。スケート場ですね。「従業員、インストラクター、皆大丈夫です。震災時、羽生結弦くんも練習していましたが、無事です」という事を頂きました。

アイスリンク仙台、震災時は、あのフィギアスケートの東北高校の羽生結弦選手も練習していたという事ですが、無事だというメールを頂きました。







    ☆☆☆☆☆☆


ねこおぢさんのTwitterには、「♯羽生結弦選手は震災時に仙台のスケートリンクにいた」というタグがつけられ投稿されています。
羽生選手に関する嘘を広めている人に対する反論の意味です。


羽生選手が平昌で金メダルを取り、国民栄誉賞授与を検討するニュースが流れてから、さらに有らぬ事を言い広める人たちがいるようです。


新しいファンの人たちは、どうぞ羽生選手の映像をたくさんご覧になって下さい。あちこちにある信頼性の高い記事を読んで下さい。

羽生選手自身の言葉を聞いて下さい。
そこに真実があります。





21歳の決意避難所での様子はこちらの記事でどうぞ。

避難した小学校を訪ねて ①ソチ後小学校の先生にお礼に行った時

避難した小学校を訪ねて ②



震災から2週間後、神奈川の都築先生の元に行くことになります。

その頃の羽生くんについてはこちらの記事で。
神奈川のリンクに避難していた頃 ①

神奈川スケートリンクに避難していた頃 ②



羽生選手の多くの事は、
ほとんど全て映像で残されています。



羽生くんが言っていたように
羽生くんが言った事も、やってきた事も消えない。







私には忘れられない
ある方の話をさせて下さい。



2年前のNHK杯のエキシの次の日、ゆづ友さんのブログで
昨夜、あるブロガーさんが天に召されたと知りました。


こう書くと、私が誰の事を言っているのか
分かる方もいらっしゃると思います。


最後の方の記事を何本か読みました。
私は初めて彼女のブログを読んで、そして、涙がとまりませんでした。


「あと少しだから頑張りたい」
「自分でもよく十年間もがんばったなあって思う」


闘病生活の最後の時間を過ごしていた彼女が綴った言葉です。

あと少しだから頑張りたい・・
彼女の文章に悲壮感は全くなくて、
何かをやり遂げようとする達成感のようなものさえありました。


まだ二十代の半ばだった彼女の十年間に及ぶ闘病生活。
どうやって心折れずに、希望を失わずにいられたのか。
ブログから分かったのは、一つには彼女を支えていたご家族の献身的な支え。

もう1つは、羽生選手の存在でした。


彼女は、NHK杯をとても楽しみにしていました。
自分が投薬の影響で眠ってしまって
その間にNHK杯が終わってしまうんじゃないかと心配していました。


彼女のご家族は、最後の3日間、彼女の耳元で羽生くんの楽曲を流し続け、どうにかショート、フリー、エキシビションの間だけは意識を戻させる事ができ・・

そうしてその夜半、天に召されていったのです。










彼女が最後に聴いたのは、ノッテ・ステラータの音楽。
最後に見たのは、羽生くんの白鳥の滑り。


そして、空いっぱいの星に包まれて
天に昇って行ったに違いありません。


涙が溢れて溢れてとまりませんでした。



私は、彼女を忘れられない。
ずっとずっと心の中で彼女の言葉を思い出していました。


最近、当時ブログを読んでいたゆづ友さんに聞いてみました。
私が読んでいない部分に何が書かれていたの?
彼女はどんな人だったの?


ゆづ友さんは自分もあんまり多くは読んでないのよと言いながら、病棟での様子と、いくつかの微笑ましいエピソードを教えてくれて、それから、「でも彼女ね。なーんにも恨んでなかったよ」と言いました。


そう、そういう人だったよね。
たった数本のブログしか読んでいなくても
彼女は前向きで、明るさがあり、とても力を貰えました。


彼女は「今を生きて」いました。自分の辛い状況を悲観する事もなく、
今出来る精一杯の事をやろう。そういう気持ちに満ちたブログでした。

彼女が書いた最後の記事のタイトルは「幸せです」。

それは羽生くんを思わせ、
そこに惹かれてファンになる人の心もやっぱり美しいと思いました。
彼女は、羽生くんのファンとしてとても相応しい人でした。



私は、あれからずっと彼女をファンの模範として心に留め
時折思い出していました。


NHK杯のあと、GPファイナルも、世界選手権もオリンピックも見たかっただろうに・・


でも、いいえ・・彼女は今はもう自由になっているんだもの。
バルセロナにもヘルシンキにも行って、一番前の一番良い席で羽生くんが演技する姿を見たに違いない。

平昌では、きっと彼を守ってくれただろう。








羽生くんの演技に、生きる姿に勇気や希望を貰ったのは
被災地の方だけではありません。

世界中から羽生くんを称賛する声が寄せられています。



羽生選手の思いも世界に伝わりますように・・




羽生選手の言葉(日本記者クラブ会見で)
自分が幸せになった時に、たくさんの方々が幸せになって、そしてその幸せが還元されてまた自分に戻ってきて・・
自分がこうやって笑うことによってみんなが笑ってくれる。
そんななんか平和な世界・・じゃないですけどそういう事は凄く感じました。





ガーベラ番組のお知らせ

・NNN news every  特別版 震災7年 知りたい災害新常識
3/11日 13:30~15:00

羽生結弦選手 オリンピック金メダルを支えた東北への思い









◆お写真はevery以外はお借りしました。ありがとうございました。