昨日の記事でご紹介したのと同じ日の紙面に載った記事です。

震災後、か細い声で羽生くんから連絡が来た時の様子、幼い時の羽生くんの事、神奈川スケートリンクに来たあとで立ち直る様子などを、都筑先生が話してくれています。


(2011年 神戸復興演技会での挨拶 )



@michaelide2010さんのTwitterより



こちらの記事も、新聞社の元記事は既にありません。

ネットから、探したものをお借り致します。




【震災を乗り越えて】ソチにかける羽生結弦選手
仙台のリンクで被災…絶望からの復活を支えたのは地元の人々だった


「僕も家族も大丈夫です…」。電話から聞こえてきたのは、今までに聞いたことのないか細い声だった。横浜市神奈川区の「神奈川スケートリンク」専属インストラクター、都築(つづき)章一郎さん(76)が東日本大震災後、羽生結弦(はにゅう・ゆづる)(19)と連絡が取れたのは発生から3日後だった。

 「充電がなくなってしまう」と言われ、1分もしないうちに切れた電話から、「無事で良かったが、想像もできない大変な思いをしているのだろう」と事態の深刻さを悟った。

 再び連絡があったのは、約2週間後の平成23年3月末。羽生の母親から「そちらで結弦を見ていただけないでしょうか」と頼まれ、「すぐにでも来なさい」と即答した。「結弦をつぶすわけにはいかない」。そんな危機感があった。


 ■恐る恐るリンクに

 選手だった都築さんは大学卒業後、指導者に転身。昭和52年に東京で行われた世界選手権で日本初の銅メダルを獲得した男子選手らを育ててきた。

 15年前、4歳の羽生は仙台市泉区のスケート場(現アイスリンク仙台)で練習する4つ上の姉についてきた。これを機に、当時スケート場の支配人だった都築さんの指導が始まった。

「野球選手になりたい」。当初、スケートへの興味は薄く、5分も練習すると飽きてしまった。だが、高い身体能力と柔軟性に加え、教えた振り付け以外の動きが自然と出てくる類いまれな表現力があった。負けん気の強さもあり、「フィギュアスケートの感性を非常に兼ね備えた子だ。この子はきっと世界一になると確信した。

 初めての演技は大好きだった「ウルトラマン」の曲で作った。フィギュアに興味を持ってもらえるよう心がけたのだ。指導は中学3年まで10年余り続いた。

 羽生が都築さんのもとを離れてから1年後に震災は起きた。23年3月末に横浜のリンクで再会した羽生は筋肉が落ちて体が一回り小さくなっていた。リンクに恐る恐る立とうとする姿からは、精神的なダメージの大きさがうかがえた。

 氷の上で余震に襲われ、誰よりも早く施設外に飛び出したまま練習に戻らなかった日もあった。両親には「このままスケートを続けてもいいのだろうか」とこぼしたことも。それを耳にした都築さんは「もう元には戻れないかもしれない」と不安を抱き、精神的なサポートを続けた。

■取り戻した情熱

 サポートもあり、羽生は4月の震災チャリティーショーに出演。これをきっかけに、スケートへの情熱を取り戻していく。そのときの心情を著書『蒼(あお)い炎』(扶桑社)に記している。

 「これから試合が始まったら、羽生は地震のせいで成績が落ちた、なんてことにはしたくない。もちろん自分が被災者の代表であることの誇りは絶対に失いはしないけれど」



 3日に1回のペースで全国各地のショーに出演しては横浜に戻り、一般客のいない午前6時と午後8時から1時間ずつ練習に打ち込んだ。オフシーズンが終わる10月までに計60公演に出演。ショーでも難しい技に挑戦し、4回転ジャンプの技術も磨いた。

 「どんなときも最高のパフォーマンスを見せたい。この状況から逃げたくない」。羽生からこう打ち明けられ、都築さんの不安は次第に消えていった。24年3月には世界選手権で初のメダルを獲得。羽生は試合後、報道陣に「僕は支えられている立場だからこそ、ここまでできたと思う。被災地の方々の応援をようやく少し受け止められたのかな」とはにかんだ。

 羽生が小学2年のころ、都築さんは「世界で羽ばたこうな。一番になろうや」と語りかけたことがある。ほほ笑みながらうなずいた少年は今、その約束を果たそうとしている。

2月1日 産経新聞朝刊 より 






    ☆☆☆☆☆☆

※記事中に入れた写真は、元記事にあったものではありません。



こんな風に色んな事があって、その先にソチオリンピックがありました。


ソチの前も、ソチの後も、

羽生くんのスケート人生は、決して順風満帆って訳じゃなかった。


幾つもの壁にぶち当たって、揉まれ、

けれど、苦難から逃げずに向き合い続けた。



結果、羽生くん自身はより輝きを増して行きました。

多くの人にとっても生きるという事は簡単ではない。

苦しみの中でどうしてよいか分からず思い悩む事の連続かも知れません。

けれどその時、歩きやすい道でもなく、最短の道でもなく、

あえてもっとも難しい道を進み理想の場所を目指すならば・・。


艱難汝を珠にす。


その言葉がどんな意味か、羽生くんが体現してくれていると思う。





◆お写真はお借りしました。ありがとうございます。