私はバラ1の魅力が今一つ分かっていない。
「SEIMEI」や「ロミオ」のようにストーリーが無く、演じている場面が分かりにくいからです。羽生くんも最初にジェフリー・バトルにこれを渡された時、どう演じればいいか分からなかったと言っていました。感情移入する役がない場合、どんな演技が正解なのか、何を手本とすれば良いのか戸惑ってしまう。
衣装もフリフリ、きらきら、透け透けな華やかなものが好きな私としては、大人しく思えてしまう。
だから、幕張で新SPとしてショパン・バラード1番が発表された時は驚いたし、戦略的な意味では良いのかも知れないし、史上二人目の五輪連覇を現実のものとするにはと思いつつもやや落胆したのです。

そんな時、ONELOVE さんとのコメントのやり取りであるヒントを頂きました。彼女はピアノを教える先生でいらっしゃいます。
以前、バラ1と震災に関するイギリスのドキュメンタリーに個人的に関わっているので来期のショートがバラ1で嬉しいと教えて頂きました。
調べてみると、そのドキュメンタリーは、「私を救ったショパンのバラード」というタイトルで、二人の登場人物が出て来ます。ネットに後半部分の動画を見つけました。
https://vimeo.com/117382149
一人はイギリスの青年。独学でピアノを学びますが脳腫瘍を患い、半身不随になりながら、バラ1を左手だけで弾けるように取り組みます。
もう一人は、ONELOVEさんの生徒の中学3年生の女の子。震災で身近な人を亡くし、心に傷を負いながらピアノに真剣に向き合う事で立ち直って行く姿が描かれています。
動画の中で女の子が言った、自分が生きてる事への罪悪感と、そして芽生えた「亡くなった人の為にもちゃんと生きなくては」という思い。
その言葉にパッと羽生くんの言葉が浮かびました。

羽生「僕たちは生きている人間だからこそ、命全うして、亡くなった方々、今もっと辛い思いをしてる方々に対して」

「胸を張って生きられるような生き方をしなきゃいけないと強く思っています」
15、6歳で震災を経験した二人が同じ思いを抱いてる・・。
バラ1の曲が作られた背景や、弾く人から見たバラ1についてもっと知る事で何か分かるのかも知れない・・。
バラ1の曲の背景については、以前、いとうやまねさんのコラム「プログラムに秘められた物語」で読んだ記憶があるけれど、羽生くんのバラ1のイメージからは意外な感じがする革命の勇者の話だったはず。改めて読んでみました。
フィギュアスケートファン2015 日本男子総括号 より抜粋
◆バラード1番の背景
この曲が作られた当時、ポーランドは列強の支配への独立の気運が高まって行く。
ショパンの父親はこう言って息子を国外へ送り出した。
「お前は祖国の革命軍の軍務に耐えるにはあまりに体が弱い。音楽の才能で国に仕えなさい」
しかし、ほどなく大国ロシアに鎮圧され、ワルシャワは陥落する。
ショパンは、遠い異国の地で自分の無力さや無念、憤りを鍵盤に落とし込んだ。
その代表作の一つが「バラード1番」。
「バラード1番」は同時代の詩人、ミツキェヴィチの叙事詩「コンラート・ヴァーレンロッド」にインスピレーションを得ている。
ストーリーはこんな具合だ。
中世リトアニアの貴族の城が十字軍に攻め込まれ、一人の少年が連れ去られる。少年は敵の司令官に息子のように育てられるが、やがて出自を知る。
青年になった彼は、コンラート・ヴァーレンロッドを名乗り、十字軍の司令官に上り詰める。そして、わざと間違った指令を出し、祖国リトアニアに勝利をもたらす。
どうだろう・・。
羽生くんのバラ1にこのような背景を重ねて見られるだろうか?
敵の中枢で知略をもって攻略する青年というイメージなら、羽生くんに合っていないと言えなくもない。戦う青年のイメージとして見てみたらどうだろう?
そう思ったけれど、ネットで更に調べたら「バラード1番」のストーリーが出て来ました。
⬇
・バラード1番は「コンラッド・ワーレンロッド」
あらかじめペストやハンセン病などの恐ろしい病気に自ら罹り、見せかけの好意で敵に近づき、病気をうつして敵を倒すという、現代で言えば自爆テロの話。
・・・なんか、いや全然イメージ違うではないか。
次に、ネットで見たピアニストのブログに興味深い部分を見つけました。
こちらのサイトより
http://2013815piano.blog.fc2.com/blog-entry-1265.html
(一部抜粋)
当日演奏する曲の中で、最も苦労するだろうなと感じているのがバラードの1番。まずはメカニカルな要素としても非常に難しいところが満載だと思うし、特にコーダは難渋だと感じる。
しかしながら、この曲で心を動かされる演奏ということは少ないようにも思う。聴き手もバラードの1番はよく知っているし、あまりにも有名な曲ということも理由の一つなのではないかと思うが、多くの演奏が「ただ弾いているだけ」のように聴こえてきてしまう。メカニカルな困難さもあるかと思うが、聴き手が、この曲に無意識に感じる、そして要求してしまう「心の葛藤」「差し込む光と希望」「怒りと喪失感」のサウンドとしての具現化というものを演奏側が担えていないのが最大の要因だと思う。パラパラとパッセージを達者に弾いている・・・という印象になりやすい。
バラードの1番は、非常に感情起伏の激しい曲のように思う。このことが聴き手の人生観、体験というものを無意識に重ねてしまいやすい理由のように個人的には感じる。ドラマティックな曲なのだ。
蝶よ、花よ・・・という何も不自由のない恵まれた人生を歩んでいる人は、もしかしたら「あら、ショパン?素敵ね」という感覚しか持たないのかもしれないが、そんな人は世の中にはいない。誰しもいろいろと涙を折り重ねながら生きているのだ。バラードの1番が人気曲であるというのは、そこに理由があるのだと思う。演奏者側が、「弾けました~」というものしか表出できなかった場合の聴き手の残念感が大きな曲なのだと思う。
この文章の中で、バラード1番は弾き手にとって苦労する曲、難しい曲だという事が分かりました。
曲に感じる「心の葛藤」「差し込む光と希望」「怒りと喪失感」に聴き手の人生観、体験というものを無意識に重ねてしまいやすいという部分に、バラ1理解の為のヒントが感じられました。
自分の悩みや苦しみ、体験などを重ねて見たらと思うと共感できそうな気がする。
けれど、もう1歩、あと少し足りないと感じました。
私の感覚と羽生くんの演技を繋ぐのに必要なもの。その足りなさを補うものを、ついにONELOVEさんのブログにハッとする記述を見つけました。以下にリブログさせて頂きました。一部を抜粋させて頂きましたが、ぜひ全文お読みください。
前にも書いたことがあるけれど、クラシック音楽っていうのは「美」を追求するもの。
だからクラシック音楽に携わる人間は、常に美しいものへの関心と尊敬を持たねばならない。
私たちクラシック音楽に関わる者は、たぶん一番人間の様々な悩み、苦しみ、哀しみ…負の感情をよく知っている。
なぜならば作曲家たちのほとんどがそういう負の感情を音にしているから。
だからこそ、私たちクラシック音楽に携わる者は人の心を美しいものへと導いていかなくては。
苦しみ、哀しみさえも美しいものへと変えてしまう魔法のような音楽がクラシック音楽。
音の中に苦しみや哀しみを見出しても、結果的には「美しいもの」として昇華して受け入れられる。
(一部抜粋)
クラシック音楽の作曲家のほとんどは、人間の様々な悩み、苦しみ、哀しみなどの負の感情を音にしている。
苦しみ、哀しみさえも美しいものへと変えてしまう魔法のような音楽がクラシック音楽。

この言葉を見つけて、パーっと羽生くんの演技に繋がりました。
羽生くんのバラ1に感じる硬質な美しさは、ピアニストの語るバラード1番の難しさと同質。
世界最高点を叩き出した難易度。見事に研磨された宝石のような、あるいは星の瞬きのような完璧な存在。
それは、技巧的に非常に難しいところが満載のバラード1番の特徴をよく表しています。
羽生くんが、よく聴こえるイヤホンでバラ1の小さな音の一つ一つを聞き、ジェフリーと共に作って行ったバラード1番。
一音一音に合わせて、あたかも自らがピアノの音に同化するような、音楽そのものであるかのような「見える音楽」。
ショパンのバラード1番そのものだったのです。
音楽そのものを見ていると思えば良かったのです。
そう思えば、なぜ衣装に飾りがないのか理解出来ます。
銀盤の精のような、氷に立ち上る冷気のようなイメージで、むしろスケーターの姿と音楽の融合を妨げる全てを排除するような、そんな意図があるのではないのか。
哀しみも苦しみも、美しいものへと変えるのがクラシック音楽・・だからこそ、その背景に険しい革命の物語があるのだとしても、聴き手の人生観、葛藤や喪失感を重ねて見たとしても、羽生くんの演技はそれを美しく浄化させてしまう。クラシック音楽を見事に表現している。
ONELOVE さんはじめ、幾つもの言葉をガイドとして、不器用な私はようやくここに辿り着きました。
それは、はじめからそこにあり、目の前にずっとあったのかも知れません。でも、それでも気づかなかったのです。
先日放送された、FaOI幕張公演のバラード1番には圧倒されました。
まるで過去見ていたものはまだサナギで、その殻を破って生まれでたような。これが本当の姿だったのかというような。息を飲むような芸術でした。
今、聴こえる音と、明日聞けばまた違う音だと気づくように、羽生くんの演技には深い響きがある。それが何度でも何度でも見る事を可能にする。永続性のあるものこそ、真の芸術です。そうしてショパンの音楽も引き継がれてきた。羽生結弦の演技もこの先ずっと愛されて歴史に刻まれるに違いない。
私は今、本当にバラード1番に魅了されているし、来期が楽しみです。その事に気づかせて下さった事に心から感謝しています。
ありがとうございました。
ここまでお読み頂き、ありがとうございました。

なお、以前記事にしましたが、バラ1の衣装はジョニー・ウィアーの2001年SP 「シェルブールの雨傘」の衣装をリスペクトしたものとおもわれます。

☆ジョニー衣装と羽生衣装の比較記事はこちら⬇
http://ameblo.jp/minminmin-vync/entry-12215536353.html?frm=theme
◆お写真はお借りしました。ありがとうございました。
「SEIMEI」や「ロミオ」のようにストーリーが無く、演じている場面が分かりにくいからです。羽生くんも最初にジェフリー・バトルにこれを渡された時、どう演じればいいか分からなかったと言っていました。感情移入する役がない場合、どんな演技が正解なのか、何を手本とすれば良いのか戸惑ってしまう。
衣装もフリフリ、きらきら、透け透けな華やかなものが好きな私としては、大人しく思えてしまう。
だから、幕張で新SPとしてショパン・バラード1番が発表された時は驚いたし、戦略的な意味では良いのかも知れないし、史上二人目の五輪連覇を現実のものとするにはと思いつつもやや落胆したのです。

そんな時、ONELOVE さんとのコメントのやり取りであるヒントを頂きました。彼女はピアノを教える先生でいらっしゃいます。
以前、バラ1と震災に関するイギリスのドキュメンタリーに個人的に関わっているので来期のショートがバラ1で嬉しいと教えて頂きました。
調べてみると、そのドキュメンタリーは、「私を救ったショパンのバラード」というタイトルで、二人の登場人物が出て来ます。ネットに後半部分の動画を見つけました。
https://vimeo.com/117382149
一人はイギリスの青年。独学でピアノを学びますが脳腫瘍を患い、半身不随になりながら、バラ1を左手だけで弾けるように取り組みます。
もう一人は、ONELOVEさんの生徒の中学3年生の女の子。震災で身近な人を亡くし、心に傷を負いながらピアノに真剣に向き合う事で立ち直って行く姿が描かれています。
動画の中で女の子が言った、自分が生きてる事への罪悪感と、そして芽生えた「亡くなった人の為にもちゃんと生きなくては」という思い。
その言葉にパッと羽生くんの言葉が浮かびました。

羽生「僕たちは生きている人間だからこそ、命全うして、亡くなった方々、今もっと辛い思いをしてる方々に対して」

「胸を張って生きられるような生き方をしなきゃいけないと強く思っています」
15、6歳で震災を経験した二人が同じ思いを抱いてる・・。
バラ1の曲が作られた背景や、弾く人から見たバラ1についてもっと知る事で何か分かるのかも知れない・・。
バラ1の曲の背景については、以前、いとうやまねさんのコラム「プログラムに秘められた物語」で読んだ記憶があるけれど、羽生くんのバラ1のイメージからは意外な感じがする革命の勇者の話だったはず。改めて読んでみました。
フィギュアスケートファン2015 日本男子総括号 より抜粋
◆バラード1番の背景
この曲が作られた当時、ポーランドは列強の支配への独立の気運が高まって行く。
ショパンの父親はこう言って息子を国外へ送り出した。
「お前は祖国の革命軍の軍務に耐えるにはあまりに体が弱い。音楽の才能で国に仕えなさい」
しかし、ほどなく大国ロシアに鎮圧され、ワルシャワは陥落する。
ショパンは、遠い異国の地で自分の無力さや無念、憤りを鍵盤に落とし込んだ。
その代表作の一つが「バラード1番」。
「バラード1番」は同時代の詩人、ミツキェヴィチの叙事詩「コンラート・ヴァーレンロッド」にインスピレーションを得ている。
ストーリーはこんな具合だ。
中世リトアニアの貴族の城が十字軍に攻め込まれ、一人の少年が連れ去られる。少年は敵の司令官に息子のように育てられるが、やがて出自を知る。
青年になった彼は、コンラート・ヴァーレンロッドを名乗り、十字軍の司令官に上り詰める。そして、わざと間違った指令を出し、祖国リトアニアに勝利をもたらす。
どうだろう・・。
羽生くんのバラ1にこのような背景を重ねて見られるだろうか?
敵の中枢で知略をもって攻略する青年というイメージなら、羽生くんに合っていないと言えなくもない。戦う青年のイメージとして見てみたらどうだろう?
そう思ったけれど、ネットで更に調べたら「バラード1番」のストーリーが出て来ました。
⬇
・バラード1番は「コンラッド・ワーレンロッド」
あらかじめペストやハンセン病などの恐ろしい病気に自ら罹り、見せかけの好意で敵に近づき、病気をうつして敵を倒すという、現代で言えば自爆テロの話。
・・・なんか、いや全然イメージ違うではないか。
次に、ネットで見たピアニストのブログに興味深い部分を見つけました。
こちらのサイトより
http://2013815piano.blog.fc2.com/blog-entry-1265.html
(一部抜粋)
当日演奏する曲の中で、最も苦労するだろうなと感じているのがバラードの1番。まずはメカニカルな要素としても非常に難しいところが満載だと思うし、特にコーダは難渋だと感じる。
しかしながら、この曲で心を動かされる演奏ということは少ないようにも思う。聴き手もバラードの1番はよく知っているし、あまりにも有名な曲ということも理由の一つなのではないかと思うが、多くの演奏が「ただ弾いているだけ」のように聴こえてきてしまう。メカニカルな困難さもあるかと思うが、聴き手が、この曲に無意識に感じる、そして要求してしまう「心の葛藤」「差し込む光と希望」「怒りと喪失感」のサウンドとしての具現化というものを演奏側が担えていないのが最大の要因だと思う。パラパラとパッセージを達者に弾いている・・・という印象になりやすい。
バラードの1番は、非常に感情起伏の激しい曲のように思う。このことが聴き手の人生観、体験というものを無意識に重ねてしまいやすい理由のように個人的には感じる。ドラマティックな曲なのだ。
蝶よ、花よ・・・という何も不自由のない恵まれた人生を歩んでいる人は、もしかしたら「あら、ショパン?素敵ね」という感覚しか持たないのかもしれないが、そんな人は世の中にはいない。誰しもいろいろと涙を折り重ねながら生きているのだ。バラードの1番が人気曲であるというのは、そこに理由があるのだと思う。演奏者側が、「弾けました~」というものしか表出できなかった場合の聴き手の残念感が大きな曲なのだと思う。
この文章の中で、バラード1番は弾き手にとって苦労する曲、難しい曲だという事が分かりました。
曲に感じる「心の葛藤」「差し込む光と希望」「怒りと喪失感」に聴き手の人生観、体験というものを無意識に重ねてしまいやすいという部分に、バラ1理解の為のヒントが感じられました。
自分の悩みや苦しみ、体験などを重ねて見たらと思うと共感できそうな気がする。
けれど、もう1歩、あと少し足りないと感じました。
私の感覚と羽生くんの演技を繋ぐのに必要なもの。その足りなさを補うものを、ついにONELOVEさんのブログにハッとする記述を見つけました。以下にリブログさせて頂きました。一部を抜粋させて頂きましたが、ぜひ全文お読みください。
前にも書いたことがあるけれど、クラシック音楽っていうのは「美」を追求するもの。
だからクラシック音楽に携わる人間は、常に美しいものへの関心と尊敬を持たねばならない。
私たちクラシック音楽に関わる者は、たぶん一番人間の様々な悩み、苦しみ、哀しみ…負の感情をよく知っている。
なぜならば作曲家たちのほとんどがそういう負の感情を音にしているから。
だからこそ、私たちクラシック音楽に携わる者は人の心を美しいものへと導いていかなくては。
苦しみ、哀しみさえも美しいものへと変えてしまう魔法のような音楽がクラシック音楽。
音の中に苦しみや哀しみを見出しても、結果的には「美しいもの」として昇華して受け入れられる。
(一部抜粋)
クラシック音楽の作曲家のほとんどは、人間の様々な悩み、苦しみ、哀しみなどの負の感情を音にしている。
苦しみ、哀しみさえも美しいものへと変えてしまう魔法のような音楽がクラシック音楽。

この言葉を見つけて、パーっと羽生くんの演技に繋がりました。
羽生くんのバラ1に感じる硬質な美しさは、ピアニストの語るバラード1番の難しさと同質。
世界最高点を叩き出した難易度。見事に研磨された宝石のような、あるいは星の瞬きのような完璧な存在。
それは、技巧的に非常に難しいところが満載のバラード1番の特徴をよく表しています。
羽生くんが、よく聴こえるイヤホンでバラ1の小さな音の一つ一つを聞き、ジェフリーと共に作って行ったバラード1番。
一音一音に合わせて、あたかも自らがピアノの音に同化するような、音楽そのものであるかのような「見える音楽」。
ショパンのバラード1番そのものだったのです。
音楽そのものを見ていると思えば良かったのです。
そう思えば、なぜ衣装に飾りがないのか理解出来ます。
銀盤の精のような、氷に立ち上る冷気のようなイメージで、むしろスケーターの姿と音楽の融合を妨げる全てを排除するような、そんな意図があるのではないのか。
哀しみも苦しみも、美しいものへと変えるのがクラシック音楽・・だからこそ、その背景に険しい革命の物語があるのだとしても、聴き手の人生観、葛藤や喪失感を重ねて見たとしても、羽生くんの演技はそれを美しく浄化させてしまう。クラシック音楽を見事に表現している。
ONELOVE さんはじめ、幾つもの言葉をガイドとして、不器用な私はようやくここに辿り着きました。
それは、はじめからそこにあり、目の前にずっとあったのかも知れません。でも、それでも気づかなかったのです。
先日放送された、FaOI幕張公演のバラード1番には圧倒されました。
まるで過去見ていたものはまだサナギで、その殻を破って生まれでたような。これが本当の姿だったのかというような。息を飲むような芸術でした。
今、聴こえる音と、明日聞けばまた違う音だと気づくように、羽生くんの演技には深い響きがある。それが何度でも何度でも見る事を可能にする。永続性のあるものこそ、真の芸術です。そうしてショパンの音楽も引き継がれてきた。羽生結弦の演技もこの先ずっと愛されて歴史に刻まれるに違いない。
私は今、本当にバラード1番に魅了されているし、来期が楽しみです。その事に気づかせて下さった事に心から感謝しています。
ありがとうございました。
ここまでお読み頂き、ありがとうございました。



☆ジョニー衣装と羽生衣装の比較記事はこちら⬇
http://ameblo.jp/minminmin-vync/entry-12215536353.html?frm=theme
◆お写真はお借りしました。ありがとうございました。