

高校生活最後の一年、カナダに“留学”した羽生選手。

すべてはオリンピックで金メダルを取るため。


家とリンクを往復する日々。

スタッフ
「あんまり外には行ってないんですか?」


羽「全然行ってない」
スタッフ
「結構町楽しそうだなって思ったんですけど」


羽「思わないっすね、あんまり。英語わかんねえもん」
スタッフ
「じゃあ家にずっといる?」

羽「家に引きこもりです」
スタッフ
「ナイアガラとか近いらしいけどね」

羽「ねえ、近いらしいですけど」

羽「行かないですね。行こうとも思わないですね」
スタッフ
「へえ、そうなんだ」

羽「本当、なんか出し尽くしちゃうんですよね必死で。練習の時に全部やって、で帰って来たらもうヘトヘトで」

羽「無理~ってなるんで」


8月下旬、羽生選手は故郷仙台に戻っていました。

羽「こんばんはー」


吉田さん「おっす」
羽「おいっす。じゃあ、お願いしまーす」
吉田「はーい」
訪ねたのは市内にあるスケート専門店。
子供の頃からの馴染みの店です。

羽「どんなもんすかね?」
吉田「頑張ってるね」
羽「ふっ(笑)ははは」
吉田「ちょっと待ってね」
羽「はーい」

オーサーコーチの元で、スケーティングスキルを磨く練習を繰り返してきた羽生選手。
エッジは激しく磨耗していました。


羽「結構「前の方で研いで下さい」とか言いますよね僕」
吉田「そうそう」


吉田「ここはちょっと、ね」
羽「角度とかも」
吉田「倒したり」
羽「はい」

(小学4年生の時)
羽生選手がフィギュアスケートを始めたのは4歳の時です。
小学4年生で参加した全国大会。初出場で優勝を果たしました。

羽生選手が特に心を奪われたのがジャンプ。
跳びたいと言う一心で、近所のスケートリンクに通い続けました。

しかし、大好きなスケートが出来なくなる事態に見舞われます。
去年3月の東日本大震災です。

通っていたリンクは使えなくなり、自宅も大きな被害に遭いました。
羽生選手は、家族と共に避難生活を余儀なくされました。

羽「もう(スケートは)無理だなって思いましたね」

「やっぱり、電気も通らない水も通らない、ガスも通らない」


羽「さて、ここからどうやって生きて行けばいいんだろうって言うような感じでしたね」

練習できる場を求め、全国を廻ってアイスショーに出続けた羽生選手。

ハンデを跳ね退け翌年、世界選手権という大舞台で見事、銅メダルを掴み取ったのです。

帰国して間もなく、羽生選手が向かったのがスケート人生をスタートさせた思い出の場所。
震災を乗り越え、元の姿を取り戻しました。



スタッフ
「まずアップから入るんですか?」

羽「取り敢えずスケーティングはしたいですね」
☆☆☆☆☆☆
仙台は祖母の姉が嫁いだ街で、私には少し縁があります。
祖母の姉は、私が子供の頃に祖母に会いに1週間ほど家に滞在した事があります。
遠方のため、その後二人は会う事もなく、姉は100歳で、祖母は88歳で亡くなりました。
別れの朝、これが最後になる事を二人は予想していたでしょうか。
子供の頃には分からなかった思いも、今は分かるような気がします。
東日本大震災の時、その仙台の親戚を心配しましたが、幸いに大きな被害はありませんでした。
その時、まだ羽生結弦選手の存在を知りませんでした。
羽生くんも震災を境に故郷に対する思いが変わったでしょう。
当たり前にあるのではなく、偶々存在するのだと。
その時その時を、一回一回を大切にしなければならないのだと。
失ってしまいそうになったからこそ、ずっと大事なものになった。
カナダには本当は行きたくなくって、吉田さんの店で声を上げて泣いていた。
日本で環境が整うのなら、カナダまで来はしない。
故郷も家族も高校生活の最後も置いて来た。
全てはスケートのために。
17歳の決意の重さ。
羽生くん、夢が叶って良かったね。
今はカナダに行って本当に良かったと思います。
羽生選手の故郷と言うこともあり、仙台は特別な思い入れを持つ街になりました。
いつか、羽生くんがその足で立ち、その目で見た場所を訪ねてみたいと思っています。
遠く離れた場所に住んでいるからこそ、余計に憧れが募ります。
(*^_^*)