ソチで金メダルを取ったあと、羽生くんが避難所でお世話になった先生方を訪ねた事がありました。


金メダルを見せた時、羽生くんが見せた、秘められていた気持ちに心を打たれた番組でした。


【2014/8/29放送 news every】より

ナレーション
今年5月宮城。羽生結弦選手は仙台市の小学校を訪ねました。


(羽生結弦・当時19歳)



羽「あっちに、あのー、臨時のトイレとか設置してあって」


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羽「自衛隊の人とか来てて。あとは、そのー、給水車とかも来てたり」


ここは、3年前東日本大震災の直後、羽生選手が家族と避難していた場所です。


(震災の映像が流れる)


2011年3月11日。羽生選手は仙台市内のスケートリンクで震災に遭いました。
当時16歳。


(ここから2012年1月に体育館を訪ねた映像)



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(当時・16歳)

仙台市内の自宅は全壊と判定。


羽「(自分たちのスペース)この幅くらいで」


こちらの小学校で家族と避難生活を送りました。


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羽「こう撮ったんですよ…寝ながら」


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その時羽生選手が撮った写真

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(撮影・羽生選手)


当時およそ450人が避難。物資は不足し、食べ物も十分ではありませんでした。

その時、心に強く残った出来事があります。


羽「おにぎり1個とか、そういうものを先生方が」



羽「頭下げながら渡して下さったのを覚えています」




羽「2人で1個とか…本当このくらいのやつ」





炊き出しをしていたのは、自らも被災した先生たち。未曾有の災害の中、人々は助け合いながら生きていました。


羽「先生たち自らも被災してて、自宅に帰りたかったっていう思いもすごいあると思いますし」


羽「人の支え合いっていうか…そういうものはここで感じた事でもあって」



ナレーション
しかし羽生選手の練習の拠点でもあった仙台市内のスケートリンクは被災し、閉鎖。

スケートは辞めざるを得ない、そう考えていた羽生選手に救いの手が差し伸べられました。

震災から一月後、既に将来を期待されていた羽生選手に、全国からアイスショーの出演依頼が舞い込みました。



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再び各地のリンクで練習を再開する事ができたのです。

しかし…。


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羽「自分のスケートのために自分だけが逃れてて」


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羽「逃れてて本当にいいのかなっていうような感じでしたね」






被災地から離れてスケートを続ける事に、後ろめたさを感じていたと言います。

震災から3年。19歳で迎えたソチオリンピック。




初めての大舞台で日本男子初の金メダル。


しかし、直後の会見で戸惑いを見せました。


(外国記者からの被災地についての質問)

羽「すごい難しい質問だと思います。実際こうやってオリンピックのゴールドメダリストになれたかも知れないですけども」


羽「それでもやっぱり、僕1人が頑張ったってあの、復興に直接手助けになるわけではないので」


羽「あの…すごい…すごい無力感というか、そういうものをすごく感じますし。何も出来てないんだなっていう感じもちょっとします」


口にしたのは無力感と言う言葉。



(帰国時の空港の映像)

笑顔の裏で複雑な思いを抱いていました。



そんな羽生選手を心配した人たちがいました。

それは震災直後、羽生選手が避難した学校で炊き出しをしてくれた先生たちです。遊びにおいでと声を掛けてくれました。






    ☆☆☆☆☆☆




意外に長いので、多分全部入らないかも
(;∀;)

2つに分けます。