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村上もとか「龍-RON-」、読了。
 
 
いや、本来「読了」というのはおかしい。
 
なぜなら、自分は「六三四の剣」以来の村上もとかのファンで、この作品も連載当時から読んでおり、単行本も何巻も買ってるし、漫画喫茶でも読んできた作品なのである。
 
しかし、1年半前からコンビニで、毎月1冊ずつ出ているワイド版を購入し始め、先日ついにその最終巻である17巻を入手して読んだところ、読後の印象がまるで変わっていたのである。
 
それまでは(他の多くの読者と同じように)、主人公の押小路龍が日本で活躍しているうちはとんでもなく面白いが、紅龍の秘宝である黄龍玉璧がからんでから、話が壮大になりすぎて、広げた風呂敷がうまく畳めてないのでは、という印象を持っていた。
 
しかし、改めて最終巻を読むにおよび、畳めてないどころか、これ以上にないほど綺麗に畳めていることに心底驚いた。
 
多くの読者は、巷にはびこっているほかの長編漫画と同じように、作者は結末まではあまり考えずに連載を開始した、と思っているかもしれない。
しかし、本作をきちんと読めば、すでに冒頭の段階で、この最後までの展開をほぼ考えていたことが、自然と分るのである。
 
それは主人公の恋人であり妻の田鶴ていの名前に秘められている。
彼女のモデルは実在の坂根田鶴子という女性である。
彼女は日本初の女性映画監督であり、満州映画協会にも入社した。
つまり、田鶴ていは、あらかじめ満州にいって映画を撮る、という設定がこの時点で考えられていた、と見るのが自然なのだ。
 
そして、作者の村上もとかの大本の構想には、大陸で馬賊として縦横無尽に活躍する日本人の青年のイメージがあったに違いない。
隠された財宝を巡っての、冒険譚。それが本作の動機だったのだ。
 
しかし、それだけでは単なるファンタジー、御伽噺である。大人の鑑賞に堪えるものではない。
 
実際の史実や、歴史上の人物を登場させ、当時の複雑な国際情勢を踏まえて主人公を活躍させる。
彼は「道のため」という武専の恩師である内藤高治先生の教えを胸にまっすぐに生きる。
そしてそこには、作者の想いとして、戦争に対する強烈な怒りが反映されている。
 
 
人類は、常に戦争を繰り返してきた。争いは、人間が持つ宿命、そして原罪でもあるかのようだ。
 
主人公の龍は、放射性物質の塊であり、原子力爆弾の元ともなる鉱物の所在地を記した黄龍玉璧を、あらゆる国家や組織を敵に回して、闇に葬ることを自らの使命と信じて、命をかけて行動する。
 
実際の行動は常に血と硝煙にまみれながらも、戦争を人類の歴史から根絶させるための、ある種絶望的な戦いを、彼だけでなく、彼の意思をついだ後世の人間たちが、何度でも何度でも何度でも繰り返さなければならない必要性を、この漫画は説いている。
 
果たして、そんなヒーローが、かつていただろうか?
 
 
龍は言う。
「オレの敵は…その秘宝に秘められた原子力物質を使って、超兵器を作ろうと企む全ての者たちだ」
 
アメリカのジャーナリスト、ワトソンはこう語る。
「戦場はどこでも、ひたすらグロテスクで悲惨だ。やがてこの大戦争に敗れた国は、勝利した国によって裁かれるだろう。大義や正義や人道の名の下に……。
国家と国家は、互いに大義や正義を振りかざして戦争するが、そんなものがきちんと存在したことはない。国家はとことん自国の利益を追求する。ゆえに、国と国はある時は戦い、ある時は握手する。
皇帝の秘宝……そこに秘められた強烈な放射性物質を巡って各勢力が争うのもまた同じ論理…なのに一人、あの男は違う。
李龍(※龍の中国名)……彼は秘宝の持つその悪魔的な力を封ずることに大義を見出して戦うという。
国家間の強烈な争奪戦の渦中で、彼が単なるドンキホーテで終わるのか……そうでないラストがあるのか……それがオレの最大の興味だ」
 
 
そして、龍の血を引いた少年の冬馬は、彼の父である卓磨が亡くなった後、自分の好きな本を読み聞かせる。それは、野尻抱影著「太陽」という本だ。
 
「昔は空に太陽が二つ出ていた。ひとつの太陽が西に沈むと、もうひとつの太陽が東から現れる。
だから人間は休むことができない。それでみんな相談して、屈強な若者を五人選んで、かたっぽの太陽を退治にやった。
ところが、道がひどく遠いので、向こうへ行き着かないうちに年をとって死んでしまった。
これではいけないというので、次には五人の若者が、赤ん坊をおぶってでかけた。
そして途中で若者たちが老人になった時分には、赤ん坊が大人になってなお先へ先へと進んで行き、とうとう太陽の近くについて、かたっぽの太陽を矢で射止めた。
それでその太陽が死んで月となり、血が空に飛び散ったのが星になった。」
 
この寓話に出てくる「もう一つの太陽」は、原子力爆弾に象徴される人類を破滅させる超兵器であり、戦争そのものでもあるのだ。
 
そして、この作品は実は、「希望」で終わっている。
成人した冬馬が打ち上げに成功した人工衛星、という形で。
 
 
 
 
 
 
一体、この作品が名作でなくて、
何が名作だというのだ。