ガルーダ(Garuda)はインドネシアでは人気あるキヤラククーでワヤンやバティックに取り入れられてきた馴染みのある鳥である。 独立に際してガルーダをインドネシアの国章として採用した。 


ナシヨナル・フラッグの「ガルーダインドネシア航空 」が世界に羽ばたくに及び〔インドネシア=ガルーダ〕となった。


このようにガルーダはインドネシアという形容詞代りであるが、もともとはインド神話の"神鳥"であり、インド文化圏が共有しているものである。 タイでは王室のシンボルである。

 
日本に伝えられた仏教にもヒンズー教の多数の神様が取り込まれている。 その中にはガルーダもある。 三十三間堂では観音菩薩の讐族として『蓮稜蓬』の名のもとに裏側の廊下にある。 興福寺には有名な阿修羅の像と一緒にある。


ただし日本の「ガルーダ」はラクダのシルクロード経由のもので、容姿は人休で顔に鳥の面影は残っている。 ついでながら日本の"天狗"は日本固有のものではあるが、飛行可能な超能力などはなにがしのガルーダの影響を受けている。


このようにインド文化の影響はアジアの津々浦々に及ぷものであるが、特に〈東南アジア〉ではインド文化が支配している。 あたかも日本、朝鮮の〈東アジア〉が中国文化の支配下にあるのと同じである。


インドネシアにおけるインドの影響は言葉においても明らかである。 インドネシア語には外国の色々な言語に語源を有する言葉が多いが、特に思想とか哲学の分野の掛象語はサンスクリット語に由来している。 


首都ジャカルタ中央のモナスの高い塔はrリンガ(梵語で象章のことで、転じて男根の意味になった)であり、その台座は『ヨニ(リンガと同じ)』でヒンズー思想の融合を象徴している。 


性に厳しいイスラム教国であるにもかかわらず首都の記念塔として受け入れられているのはインド文化の根強さを物語るものであろう。


rラーマーヤナ」「マハーバーラタ」というインドの叙事詩がインドネシア人にとって血肉となっているのは、日本人にとってあたかも「史記」「論語」「三国史」「水潜伝」と同じ位置づけらしい。


教養のあるプリヤイ という階層はインド思想が処世訓であり、己の規範である。 日本人の士族における”論語"の位置づけである。 


庶民はマハーバーラタ 、テーマーヤナの恋や賭博や戦争の場の語りを聞いて育っている。


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インドネシア文学をインドネシア語の文学と定義するならば、インドネシア語自身の歴史から、インドネシア文学はようやく数十年の歴史を経たぱかりであり、まだ成立の過程でもあるといえる。


しかし、今ではインドネシア語は国語として教育の成果で国中に普及した。 これによりインドネシア語は広範囲の読者層を産み出すに至り、インドネシア語で書かれる『インドネシア文学』は確固たる基盤を持つようになった。

ジャワの知議人がそれまでのジャワ語から、初めてムラユ =インドネシア語で文筆活動を行う時の心理的葛藤がプラムディヤ・アナンタ・トゥール著の『人間の大地』に記されている。植民地時代のジャワ人のインテリにとってムラユ語での文筆にはわだかまりがあった。


しかしながら総じて文筆活動を行う者は民族主義者であり、インドネシア語の創設に努めたのも文学者である。このようにインドネシアの文学者は西欧文学の影書による自己のモチーフの表現に付け加え、インドネシア語の創設という二重の課題を負わされていた。


インドネシア文学の歴史に立ち返ると、当初、その担い手はムラユヘの距離の近いスマトラのミナンカパウ人 が主体であった。ムラユを駆使したアミル・ハムザ という詩人はスマトラのスルタンの家系の出である。

1920年代の「バライ・ブスタカ世代」といわれる時代に続いて1930年代に入りアリシャパナの主宰による『プジャンガ・パルPUJANGGムBARU(新しい詩人)』が創刊され、この雑誌に拠る多くのインドネシア人の文学者を輩出した。同誌は植民地時代の文芸・文学活動の拠点であり、インドネシア語の成熟化と全治域への普及に貢献し、その担い手はインドネシアの全民族に拡がった。


独立以前の文学活動も植民地支配構造の締め付けの中であった。独立直後の混乱期を除くと政権が確立すると文学者は為政者にとって一面では煩わしい存在でもあった。モフタル・ルピスのようにスカルノ大統領に逆らい、さらにスハルト休制になっても籏言して文筆活動を制限されている。


ブラムディア・アナンタ・トゥルはスカルノ大統領時代にもてはやされた左翼系の文学者であったが、スハルト体制の中では閉塞している。『人間の大地』に続く3部作は大河小説として評判が高いがインドネシア国内では発禁である。


詩人レンドラは創作劇の演出家としても国際的評価を得ている。



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ジャワ在来のガムランの伴奏による独唱は”御詠歌”を連想する。 現在ではクロンチョン がインドネシアの国民音楽に位置づけられる。


クロンチョンとはオランダ人に負けたポルトガル人の故郷を偲んで歌ったのがその原型である。 クロンチョン ギター の細かいリズムとセンチメンタルなメロディはインドネシア人の心を捕えた。 リズムは軽快でハワイアンとの共通性もある。


日本でも知られているのは「ブンガワンソロ」である。 クロンチョンは国民に愛唱されインドネシアの国民音楽となった。 その他には「インドネシア・ブサカ」「ハローハローバンドン」が知られている。 しかしクロンチョンにもジャワ風の旋律とガムラン のリズムが取り入れられているという。


これはあたかも日本の``演歌"が五線紙に作曲され西欧の楽器で民奏されても浪花節等の影響から免れていないのと同じであろう。


インドネシアの歌の本を見ると歌詞に数字と長短の一(バー)が添えられている。 この数字は音階を表すもので楽譜の代りである。 ダンドウット になると楽器もいわゆるバンドであり、インドネシア製のニューミュージヅクで当然のことながら若い層に人気がある。


インドネシア人は歌が好きである。 日本の占領は軍歌という遺産を残している。 時たまr見よ!東海の空明けて・・`』とインドネシア人が歌いだすことがある。 歌詞の意味は解らないがそのメロディが気に入っているようである。


カラオケをインドネシアに持ち込んだのは日本人であるが、今やインドネシア人に拡がっている。 これは東南アジアに共通の現象である。 カラオケ以外に日本が東南アジアにもたらした文化はインスタントラーメンであり、アニメである。 所詮、日本文化とはこの程度のものだろうか。 


悲しい哉!マイクで歌う歌に対して、声量が豊かで堂々としたパタク人 にはマイクは不要である。 バタク人にキリスト教が受け入れられたのは賛美歌を歌うことが気にいったからという説もある。 バタク人は声楽ばかりではなく器楽の演奏も器用である。 


インドネシア人の中で国際的な音楽家、あるいはエンタテイナーが現われるとしたならば、その素質があるのはバタク人でなかろうか。


アンボン人やメナド人のようなキリスト教徒民族は不思議と音楽才能に恵まれている。


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