最近はそれほどでもない(?)が、一時期よく「森ガール」という言葉を耳にした。


「森ガール」の定義は、こうだ。


"森にいそうな格好をする女子"


この時点でそれなりに曖昧な気はするが、流行とはそういうものだ。具現化されることで、その解釈の範囲は狭くなり、拡張を妨げる可能性がある。


話は変わって、先日少しぽっちゃりした女子社員が、茶色のベストを着て出勤してきた。彼女なりの"オシャレ"だったのかもしれないが、申し訳ないが後姿は『マタギ』しか見えなかったというのが事実。


その想いを友人に話したところ「つまり彼女は、"森ガール"だね」と。


「森ガール」の定義に一つ加えていただきたい。


「森ガール」とは、"『マタギのような格好をする女子』の意を含む"と。

かなり久しぶりの更新です。

その割に非常にくだらない小話です。


近々出産を控える後輩から聞いた話。


後輩の友人に保育園で先生として勤める友人がいるとのこと。自分の子供の頃と違って、最近は随分バラエティに富んだネーミングを携えるお子様が増えているそうな。


例えば、兄弟で「シュート」くんと「ゴール」くん(どんな字を書くんだ)。運よくサッカー選手を志してくれたらいいが、卓球に夢を託し始めたらどうすんだ?


そんな中度が過ぎてると思ったのが、「ミルク」ちゃんと「ココア」ちゃん。単品でもなかなかキツイが、二人揃って『ミロ』と呼ぶ外ない。どうか二人が親友になりませんように。


ノリだけで子供の名前を決めるのは、止めて下さい!!

ワンルーム。


"居室、ダイニング、寝室等に仕切りがなく一体になっている。ただし、トイレや風呂場は別になっている。通常は一人ないし少数の居住者向けであり、専用部分の面積は20m²程度の小規模なものが多いが、広いものでは40m²を超えるものもある(wikipedia参照)"。


このワンルームの定番『ユニットバス』について。


この"ユニットバス"とは、つまり一般的に"浴槽とトイレが一つの空間に収められている空間のこと"を指す。しかし、これはあまり好まれるものではないのは確か。賃貸物件を探す際、条件として"風呂・トイレ別"の項目が加えられるくらい、いたたまれない人には敬遠される条件である。


その第一の理由は『狭い』だろう。では、この『狭い』は、何が狭いというのだろうか。もちろん、それは"風呂"である。トイレに空間の約半分を占められ、浴槽部分に費やされる空間は非常に制限されてしまう。そのため、多くの人は日ごろの入浴をシャワーのみで済ませられることを強いられ、疲労とストレスが蔓延した世の中の垢までも落とすことは出来ないのだ。この狭さが引き起こす一種のストレスを人は嫌うのである。


しかし、よく考えてみてほしい。この狭さは、100%「風呂目線」なのだ。"ユニットバス"と銘打たれていることから判るように、この場合、あくまで主役は風呂なのだ。しかし、同空間には間違いなく"トイレ"が存在していることを忘れてはいないだろうか。風呂とトイレ、二つ揃って初めて"ユニットバス"たり得るのである。漫才コンビでボケとツッコミがいるにも関わらず、ボケばかりに注目があつまり、ツッコミに光は当たらず、「じゃない方」と呼ばれるようなものなのだ。ボケとツッコミ、二人揃ってコンビであることを皆忘れがちである。


では、この風呂とトイレ、両者を同じステージに上げてあげようではないか。これまで風呂目線でユニットバスを語り、ある種の劣等感を抱いてきたのであるならば、まさにその一元的思考を止めてみるのだ。つまり、ユニットバスでは影の存在であるトイレに光を当ててみる。


するとどうだ。これまで「狭い」と言われていたユニットバス。しかし、発想を少し変えてやるだけでユニットバスは広くなる。風呂しては狭いだろうが、トイレとしては、かなり広い空間になるではないか。あんなに広いトイレは、そうそうの豪邸にだって見受けられない。そう、ユニットバスは広いのだ。広大なトイレなのだ。


自分の家が、「風呂トイレ別だ」と言って自慢する奴に言ってやればいい。「でもお前んちのトイレ、狭いよな」と。ユニットバスへの劣等感を抱いてきたユニットバスユーザーよ、「君の家のトイレは広い」のだ。そこに劣等感は、もはや不要だ。トイレの広い家に住んでいることを誇りに思うのだ。"ユニットバス"、なんて素晴らしい響きなのだろうか。

子供の頃から"テレビ好き"だった。


古い記憶は、ひょうきん族やら元気が出るテレビ。それからテレビはダウンタウンが席巻し、今ははんにゃやオードリーを見ない日はない。ドラマも数えきれないくらい見てきた。おかげで18の時、受験勉強とテレビを両立した挙句、"眼の神経をやられる"という偉業を成し遂げたのだ。結局、大学では"メディア論"を専攻するほどにテレビが好きだった。その割に我が家のテレビは、未だに"しょっぱいテレビ"のために多チャンネル時代には全く追いついていないのだが。


それはさておき、今一番面白いと思うテレビ番組はテレビ神奈川で放映中の『勝手にガイドライン 』である。


コンテンツは至って単純。ライオンやらアライグマのぬいぐるみを静止画で映し出し、フリートークのスタイルで「勝手に色々なガイドライン決める」というもの(初回テーマは『犬』)。そして、出演者はタレントではなく、制作スタッフである。


つまり喋りのプロではない"普通の人たち"が、番組を展開させているのだ。しかも、先に「勝手に色々なガイドライン決める」と記したが、プロではないため当然ながら話は右往左往する。今日現在(2010年1月25日)、15回の放送を終えているが、未だ『犬』の話を続けている。その間、『椅子』の話や『心の時代』と『犬』とは、全く関係のない話を展開している。さらにその語り口は、「飲み屋で大人がいい加減な話をいい加減にする」然としているのだ。


しかし、これが非常に面白い。何が面白いのか。この"いい加減さ"が面白いのである。肩に力の入らないコンテンツ、プロではないための自由さ。5分という限られた枠の中で、いかにどうでもいい話をどうでもよく真剣に考えるのか、これがこの番組の醍醐味なのである。テレビでありながら、非常に"ラジオ的"である。というか、ラジオだ。



よく言われるコトに「深夜番組がゴールデン枠に移った途端、面白くなくなった」という文句がある。深夜枠で予算が限られているという制約の中で制作サイドが知恵を絞って面白くしようとする。その努力が結果に結びつているであろう。しかし、ゴールデン枠に移ることで予算は上がり、やれロケに行ったりだ、売れっ子のタレントを起用するだの番組としてやれることの振れ幅は大いに飛躍する。それが、結果として余計な脂肪と化すのである。


なぜ"余計な脂肪"となるのだろう。コンテンツとしては一見非常に充実したように見えるが、「受け手はそれを欲していない」のだ。


先日、ある情報番組で『欲しがらない若者』というテーマのコーナーを目にした。現代の若者には、かつての若者と比較すると非常に"欲"が欠落しているそうだ。一昔前の若者にとって、あらゆるモノが(情報についてもの同じ)手に入ることはそうそうなかった。それが故に若者は、それを手に入れるために労を惜しまず学び、働いた。しかし、現代の若者は、どこにいても欲しいモノ(情報)は手に入る。しかも、往々にして手に入る範囲(日常の範囲)のモノを欲する傾向にある。子供の夢に"公務員"がランクインする時代なのである。


話を戻すとゴールデン枠のバラエティ番組の多くは、若者をターゲットに制作されているだろう。制作する側は、彼らに好まれるであろう企画を提案し、そして提供するが、受け手の若者にそれを欲するコト"欲"がないのだ。余計な情報は必要ないのだ。それを「面白くない」と評するのだ。



そうなると『勝手にガイドライン』は、現代にウケる最たる番組と言えるだろう。もはや画は、動かない。日常の範囲内で聞かれるような会話(にしては、笑いをとれる口調、内容だが)。面白い友人が語り部として居酒屋で面白い話をしてくれるような、当たり前の範囲で物事が展開するのだ。テレビである必要があるか、というと正直ラジオでも十分可能なコンテンツではあるが、ただこれをやっているメディアがテレビであるだけである。しかし、これがこの番組の"魅力"と言えるだろう。


欲しない相手に与えても無意味なのだ。「馬の耳に念仏」、とはよく言ったものだ。テレビではあるが、余計な脂肪は全て削ぎ落とし、音声だけで勝負する。これが現代のバラエティ番組に最も必要とされるスタイルなのだろう。何かをしながらテレビを見る。いや、実際には見ていなくてもいい。それでも楽しめる番組が、今一番面白いのだ。"見ない番組"。様々なエレメントが欠落しているからこそ、受け手は考え、若しくは全く何も考えず見る(見ない)ことが出来る番組、というわけだ。



付け加えておくが、これはバラエティ番組という範囲に限ったことで、こればっかりが浸食したテレビ番組が横行したら、もはや終わりだ。

手短に。


先日、小腹が空いたので軽く食事でもと思いチェーン店の喫茶店へ。その店は、『喫煙席』と『禁煙席』で区切られている、所謂"分煙"のスタイルをとっていた。元々煙草は嗜むが、吸わなければ吸わなくてもいいというなんともいい加減な主義。どちらに案内されようと構わなかった。


店内は混み合っており、席を確保出来るかどうか困難な状況。それでも一つ位は空いてるだろうと思い入店。自動ドアが開くと、ほどなくして学生のアルバイトであろう若い店員が私へ近づいてくる。



店:「お煙草吸われますか?」


正直どちらでもよかったが、一応「はい」と答えておいた。


店:「喫煙席は満席でございます」と。


なら仕方ない。「じゃあ、禁煙席でいいですよ」


店:「禁煙席も満席になっております」



なんだこのしっくりこないやり取りは。


空いていないのなら空いていないと、初めからそう言えば済むんじゃないか?というか、そもそもなぜ私に喫煙席か禁煙席かを尋ねたのだ。彼女は、何を知りたかったのか。この不毛なやり取りを彼女はどうして導き出したのか。もはや哲学である。


このようなシーンを語る時、昔から"マニュアル"という言葉が一つのクリシェといて用いられるが、彼女はこのように言わないと、店長に地下牢に鎖で繋がれでもするのだろうか。余程の強制力がない限り、このような不毛地帯に客を誘導することはないだろう。


そうだ、ここの店長は君主論に出てくる「消す」方の恐怖政治を展開しているのだ。決して「頭を撫でる」方ではないのだろう。きっと彼女は、消されることを恐れる民衆なのだ。彼女の一点の曇りもないあの笑顔の向こうには、この恐怖に耐え、そしてその僅かな賃金で病気の父に薬を、幼い弟の学費を工面してやらなければならないという使命が存在しているのだ。


そう考えると、この不毛だと思われた一瞬の会話から大いなる意義を汲み取ることに成功し、私は笑顔で「そうでしたか。では、失礼します」と言い、至極丁寧に一礼をしその場を立ち去った。そして、彼女は屈託のない笑顔のまま、私を見送った。


彼女に明日はあるのだろうか。

いつの頃からか"メタボリックシンドローム"という言葉が浸透しだした。調べると正しくは「内臓脂肪型肥満(内臓肥満・腹部肥満)に高血糖・高血圧・高脂血症のうち2つ以上を合併した状態」という意味になるらしい。これが現在、一般的に『肥満』を指す代名詞としてこの言葉は市民権を得たようである。


実際、自分自身コレとは全く無縁の体型ではあり、ある種の遠い国の出来事に過ぎないが、いつその国へ招待されるかもや判らない。恐ろしいものである。


この言葉が一般化する以前から、この類の症状はもちろん存在していた。ただし、それを形容するのには『肥満』やや侮蔑するように『デブ』というマイナスイメージを喚起するこれらの言葉が一般的であった。それがいまや『メタボリックシンドローム』または、略して『メタボ』と呼ばれたりするのである。しかし、これに些か疑問、というか違和感を感じるのである。


もちろん、身体における現象を表すただの言葉に過ぎない。この言葉自体に罪はない。しかし、『メタボリックシンドローム』という響きは、カッコよ過ぎやしないか。ましてや『メタボ』と略語(=ニックネーム)にされることで、ある種の愛らしさまでも生み出しているように思える。ここまで来ると、もはや"キティ"みたいなものである。そこまで親近感を込めた愛称で呼ばれると、『肥満』や『デブ』のようなマイナスイメージを思い起こさせることは困難なのではないだろうか。


つまり、『メタボ』というものに対しての危機感を人に植え付けることは難しくなってくる、ということだ。いくらメディアを通じて「メタボ対策」やら「脱メタボ」などと言われても、さして危機意識は生まれない。メディアが危険だということを訴えても説得力が薄い。危ないことというより、何かほっこりした感覚を覚えるのではないか。


では、どうすべきなのか。答えは簡単である。もっと『メタボ』と呼ばれる現象を形容する言葉について、禁忌的ニュアンスを含ませればいいのだ。もしくは、侮蔑的要素を加味すればいいのである。例えば「脂まみれ」とか「なると死ぬ」とか「屑」とか。もはや国営放送などでは、"ピー"音が入るくらい危険な言葉でも構わない。アイドルなんかが、事務所から「その言葉は絶対NG」と釘をさされるような言葉。とにかくこれが蔑称となるような、とんでもない言葉であれば人は皆「そーはなりたくない」という危機意識を持つはずである。


健康増進法として国が"健康維持を国民の義務"としているならば、それくらいの暴挙に出でも誰も文句は言わないだろう。



もはや若くないという年齢になって初めて思う。健康であることが何よりも大切である、と。