9.「みかえり」について

中庭には、桜の甘い香りが漂っていました。
トモカさんの部屋の前から、こちらにむかってくる人がいました。
トモカさんは立ち止まって、じっとその人のことをみつめました。その人は最初トモカさんに気づきませんでしたが、数秒遅れて、トモカさんに気づきました。
そして、立ち止まりました。
二人は何も言わず、しばらくただ黙ってみつめあいました。
トモカさんのみたところ、その人は男の学生さんのようでした。少しくたびれたシャツとセーターを着ていました。その上から軽く、ウィンドブレーカーをはおっていました。雑誌にでてくるモデルさんのような顔ではありませんが、とても目が綺麗で、好感のもてる顔をしていました。
トモカさんは何か言わなくては、と思いましたが、言葉がでてきませんでした。
向こうもきっとそんな気持ちだったのでしょう。でもやがて口を開くとひとこと、
「おはようございます」
と言いました。
その声は、少し緊張していましたが、普段はきっと穏やかで優しそうなんだろうな、と思わせる声でした。でしたので、トモカさんはゆるゆると話しかけはじめました。
「牛乳を置いてったの、あなた?」
「……はい」
「ふうん」
どうして置いてったの、とトモカさんが聞こうとするより先に、向こうがいいました。
「すみませんでした」
「どうして?」
「でもいたずらじゃないんです」
なんだかうまく会話がかみあいません。それでも相手の必死な様子が、うっすらした光を通してわかりましたので、トモカさんは黙って相手の言うことを聞くことにしました。
「牛乳配達のアルバイトをしているうちに、朝方帰ってくるあなたをみかけたんです。でも、こんなこと言っちゃ怒られるのかもしれないけど、ちょっと、ほんのちょっと疲れたようだった。だからいつも疲れてる顔をしているのかな、と思ってたんです。でもある日、たまたま近くの公園であなたが小さな男の子と遊んでいるのをみかけて。そしたらあなたは笑っていて、それがとても素敵で」
そこまで言うと、学生さんはうっすらと頬を染めました。トモカさんは学生さんより長く生きてきましたから、何度かこんな顔をみたことがあります。それでも、この学生さんの赤い頬をみていると、とてもどきどきしました。
「何か僕にもあなたを笑わせられないかな、と思って。それで牛乳を置いていったんです。風邪ひいて配達を休んだ日以外は、毎日通うつもりでした。でもよく考えると、迷惑ですよね、誰が置いていったかわからない牛乳なんて。」
「でも、でも私を思ってしてくれたのよね」
トモカさんがそう問いかけると、学生さんは言いました。
「今の今まで、あなたの顔をみるまでそう思ってました。でもいざあなたにこうして会ってみると、なんだか違う気がします」
「何が?」
「結局、僕は自分のことだけ考えていたんです。この牛乳をみて、あなたが微笑んでくれればいい、ちょっとでも幸せな気分になってくれたらいいって」
「それのどこが、自分のことだけ考えてるのよ?」
「だって、僕はあなたが牛乳をみて、どう考えるか、どう感じるかわからないわけだから」
そこでちょっと言葉をとめて、うつむいて、こう続けました。
「それって、やっぱり自分勝手でしょう?」
その瞬間、トモカさんの心の中が、くるくると溶け始めました。
確かに、学生さんは自分勝手だったかもしれません。
プレゼントに「みかえり」がつきものだとしたら、この場合トモカさんの「微笑み」「幸せ」が「みかえり」にあたるのかもしれません。
でもそんな「みかえり」なら、大歓迎だわ!
トモカさんは、もう何もいわないで、というように手を伸ばしました。
学生さんは戸惑った様子でトモカさんをみつめ返しました。そしてトモカさんに手を握られると、ちょっとびっくりしたように肩をすくめました。でもトモカさんはやめることなくこう言いました。
「ありがとう」
そしてトモカさんは「自分勝手、万歳!」と心の中で叫びました。

この様子をみていたものは本当なら誰もいないはずでしたが。102号室のイチロウさんが起きていましたので、この一部始終ではないにしろ、若いふたりが手をつないで中庭に立っている姿は、目にとまりました。そしてにっこり微笑みました。(イチロウさんがそのとき、自分の若い頃を思い出していたのは言うまでもありませんが、それはまた別のお話です。)
次の日から、朝はやくナンさんのアパートメントの前を通りがかった人が、もし門の扉のかげから中庭をのぞいたとしたら、若いふたりの姿をみつけたことでしょう。
そして、402号室のトモくんは、お昼をすぎたころ、トモカさんの部屋へ遊びにいくのが決まりになりました。
なぜならいつでもトモカさんがおいしい牛乳を出してくれることがわかっていたからです。

<おわり>