はじめに 「子どものため」という理由だけでは、関わりの意味は決まらない


思春期の子どもに、どこまで関わるべきなのか。

困らないように先回りすることも、本人の意思を尊重して任せることも、どちらも子どもを大切に思うからこそ選ばれる行動です。

失敗してほしくない。
傷ついてほしくない。
できることなら、遠回りをせずに進んでほしい。

そうした思いがあるからこそ親は手を貸し、助言し、ときには本人に代わって物事を整えます。

けれど子どものためを思ってしたことが、必ずしも子どもの力になるとは限りません。
親が先に手を貸すことで、子どもが自分で経験するはずだったことが失われる場合もあれば、本人の意思を尊重しようとするあまり、必要な支援まで届かなくなる場合もあります。

守ることと踏み込むこと、支えることと奪うこと。
その境界は、簡単には見極められません。


過保護と過干渉。
どちらも、子どものためを思ってした関わりが、いつの間にか問題になるときに使われる言葉です。

けれど親が手を貸したことを悔やむ場面と、
本人の意思に踏み込んだことを悔やむ場面では、母親が引っかかっているものも違います。

何がいけなかったのかを考えようとするほど、関わったこと自体が間違いだったのか、
それとも関わり方に問題があったのか、
その境目が分からなくなることがあります。

子どものためにしていることが、子どものためになっているとは限らない。

その事実を前にしたとき、母親は何を手がかりに、自分の関わりを考えればよいのでしょうか。
過保護と過干渉の違いを知るだけで、その答えは見つかるのでしょうか。



第1章 行動だけでは、過保護と過干渉は見分けられない


過保護と過干渉を区別するとき、まず目を向けるのは、親が何をしているかです。

子どもが困らないように手を貸すことは過保護、本人の意思や行動に踏み込むことは過干渉。
そう整理すれば、親がどこまで関わってよいのか、その境界が見えてくるように思えます。

しかし実際の親子関係は、行動の種類だけで分けられるほど単純ではありません。

たとえば、子どもの忘れ物に気づいて届けること。
本人がどうしても対処できない状況での支援なのか、自分で対処できることまで親が引き受けているのかによって、同じ行動でも意味は異なります。

進路について意見を伝えることも、本人の考えを深めるための働きかけなのか、親の望む方向へ進ませるための誘導なのかで、その性質は変わります。

手を貸したか、口を出したかという事実だけでは、関わりの実態までは分からないのです。

さらに親が意見を伝えたからといって、必ずしも子どもの意思を侵害したことにはなりません。
反対に本人に決めさせたからといって、親が意思に踏み込まなかったとも限りません。

表面上の行動が同じでも、そこに至るまでのやり取りは違います。
行動だけを切り取って分類しようとすると、親子の間で実際に何が起きているのかが見えにくくなります。

行動に名前をつけることと、その関わりを理解することは、別のことです。

過保護か過干渉かという分類は、
親の行動を整理することはできても、その行動が子どもに何をもたらしているのかまでは、決めてくれません。


第2章 失敗を防ぐことが、子どもの力を守るとは限らない


忘れ物をすれば届ける。
準備が足りなければ声をかける。
失敗しそうなら、先に手を打つ。

子どもが困ると分かっていて、何もしないでいることは難しい。
本人があとで困らないように、今できることをしておく。
それは親として、ごく自然な判断でもあります。

けれど子どもが困らないように整えられた状況では、本人が自分の判断を確かめる機会まで失われることがあります。

準備が足りなかったと気づくことも、
判断を誤ったと知ることも、
自分で動いたからこそ得られる経験です。

親が先に気づき、先に補い、先に解決すれば、子どもは失敗せずに済みます。
しかし失敗しなかったという結果だけでは、
本人が何を身につけたのかは分かりません。

親が先回りするほど、子どもが自分で対処する場面は少なくなります。
そこで起きているのは、単に親の仕事が増えるということではありません。
子どもが自分の判断と結果を結びつける機会が、親の判断によって置き換えられていくことです。

親が正しい方法を知っていることと、子ども自身がその方法を使えることの間には、経験という隔たりがあります。

子どもに失敗してほしくないという思いが、
子ども自身が失敗から学ぶ機会まで遠ざけてしまうことがある。

もちろん、失敗すれば成長できるというほど、子どもの経験は単純ではありません。
本人には対処できないこともあれば、
親が守らなければならない場面もあります。
失敗を経験させること自体が目的になれば、
子どもに必要な支援まで遠ざけてしまいます。

だからこそ失敗を防ぐことと、子どもが自分で対処する機会を残すことを、同じものとして扱うわけにはいきません。
失敗しなかったという結果と、本人が自分でできるようになったという結果は、必ずしも一致しないからです。

母親が手を出さずにいることにも、難しさがあります。

失敗した姿を見れば、助けてあげたくなる。
困っていると分かれば、放っておけない。
その気持ちを無理に抑え込むことが、自立を支えることなのでもありません。

問われているのは、失敗をさせる覚悟があるかどうかではなく、
失敗を防ぐことと、子どもが自分で対処する機会を残すことが、いつも同じ方向を向いているわけではないという事実です。



第3章 子どもに選ばせることと、意思を尊重することは違う


子どもには、自分で考えて決められるようになってほしい。
親がいつまでも答えを与えるのではなく、自分の人生を自分で選べるようになってほしい。

思春期の子どもを育てる母親なら、そう願うことは少なくないはずです。
だからこそ最後は本人に決めさせようとする。

親の意見を伝えたとしても、決めるのは子ども自身。その形を守ろうとします。

ところが、いざ本人が自分の望まない選択をすると、簡単には受け入れられないことがあります。

もっと別の道があるのではないか。
そんな選択で本当に大丈夫なのか。
先のことまで考えているのか。

親には親の見通しがあり、子どもにはまだ見えていないものがある。
だから、もう一度考えてほしい。
そう思うこと自体は不自然ではありません。

けれど、何度説明しても本人が考えを変えないとき、母親の中では、別の問いが生まれます。

どうして分かってくれないのだろう。
これだけ考えているのに、なぜ私の言うことを聞かないのだろう。

子どもの将来を思って伝えているはずなのに、話を聞いてもらえないことが、まるで自分の思いまで拒まれたように感じられることがあります。
本人の選択を尊重したい気持ちと、その選択を受け入れられない気持ちが、同じ場所に存在するのです。

自分で決めてほしいと願いながら、
自分が納得できる答えを選んでほしい。

その二つは、いつも両立するわけではありません。


親が意見を伝えることと、
子どもの意思を奪うことは同じではありません。


問題になるのは、本人が親とは違う結論を出したとき、その選択を未熟さや考え不足として退け、納得するまで考え直すよう求め続けることです。

母親には母親の見通しがあり、子どもには子どもが大切にしたいものがある。
親の考えが合理的であっても、それが本人にとって唯一の答えになるわけではありません。

親の意見を伝えることと、親の意見を選ばせることの間には、決定的な違いがあります。

難しいのは、子どもの意思を尊重するという考え方を理解することではありません。
自分の望まない選択を目の前にしたときにも、子どもには自分で選ぶ権利があると認められるかどうかです。

親の考えが正しいと思うことと、その考えに従うことを子どもに求めることは違います。

母親が納得できない選択であっても、子どもが自分で考えた末の選択であるなら、その違いをどこまで認められるのか。
そこでは、意思を尊重するという言葉を知っているだけでは済まない問題が生じています。


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子どもの意思を尊重することは、親の考えを伝えないことでも、すべてを本人に任せることでもありません。

けれど、過保護にも過干渉にもならないようにと考えるほど、母親は「正しい関わり方」を探し続けることになります。

任せることが正解になれば、必要な支援まで控えるようになり、自分の関わりが間違っていなかったかどうかを確かめることに意識が向いていく。

では関わり方を振り返ることと、子どもを理解することは、どこが違うのでしょうか。

ここからは、「過保護か、過干渉か」という分類が、いつしか母親自身を評価する基準へと変わっていく構造を考えていきます。


https://note.com/hapihapi7/n/nb1f5b6e34e71