受験期になると、
母の負荷だけが静かに膨らんでいく。
不安を抱えるのも、
判断を引き受けるのも、
そして後悔するのも、母であることが多い。
模試の判定に揺れ、
志望校の選択に迷い、
「この判断でよかったのか」と夜に反芻する。
それを繰り返しているのは、
多くの場合、母です。
父は仕事をし、帰宅し、
食事をとり、眠る。
もちろん父にも役割があります。
生活を支え、家族を養うという責任を担っています。
それでも残る感覚があります。
隣で子どもが揺れている。
隣で母が消耗している。
その光景を見ながら、
父は日常のリズムを大きく崩さない。
なぜなのか。
母の中に生まれるのは、受験そのものの不安だけではありません。
「私ばかりではないか」という感覚です。
この感覚は、被害妄想ではありません。
実際に母の負荷は増えています。
情報収集。
スケジュール管理。
塾や学校との連絡。
子どもの感情の受け止め。
将来への見通しを立てる責任。
それらは静かに、しかし確実に、母に集まっていきます。
しかもそれは、目に見えにくい労働です。
誰かに頼まれたわけではない。
評価されるわけでもない。
けれど、やらなければ回らない。
だから止められない。
そして気づけば、母の負荷だけが膨らんでいく。
ここを曖昧にしてはいけません。
これは性格の問題ではありません。
気にしすぎでもありません。
受験期は、家庭の中に潜んでいた役割分担の偏りを、はっきりと浮かび上がらせます。
誰が不安を抱えるのか。
誰が決定を担うのか。
誰が感情を引き受けるのか。
そして、誰が日常を保つのか。
母が弱いからでもなく、
父が冷たいからでもない。
けれど確かに、負荷は偏っています。
まずはこの事実から目を逸らさないこと。
「私ばっかり」という感覚は、気のせいではありません。
ここから、その構造を解体していきます。
◎「私が気にしすぎ?」という誤解
母はこう思っています。
・私が気にしすぎ?
・夫は普通で、私が神経質?
違います。
問題は「感じ方」ではありません。
仕事量と責任の偏りです。
受験期に母の中で起きていることは、
感情の増幅ではありません。
業務の増加です。
情報を探す。
比較する。
判断材料を揃える。
スケジュールを調整する。
子どもの揺れを受け止める。
学校との窓口になる。
これらはすべて、
目に見えないが、確実に時間と神経を使う作業です。
しかも厄介なのは、
「誰かがやらなければならない」種類の仕事だということ。
放置すると不安が拡大する。
判断が遅れる。
子どもが不安定になる。
だから、動けるほうが動く。
気づいたほうが動く。
その積み重ねが、
いつの間にか役割になります。
そして母はこう言います。
「私のほうが気づいてしまうから」
「私のほうが心配性だから」
けれど、それは本質ではありません。
本質は、
気づいた人に負荷が集中し続けたこと。
夫が鈍いのではない。
母が過敏なのでもない。
構造が、
“反応する人”に仕事を集めただけです。
さらに見落としやすいのは、感情の負荷です。
子どもの不安を受け止める。
愚痴を聞く。
落ち込みをなだめる。
希望をつなぎとめる。
この感情労働は、数値化されません。
けれど確実に消耗します。
父が何もしていない、という話ではありません。
ただ、
受験という不確実な出来事に直面したとき、
「不安を引き受ける側」と
「日常を保つ側」に自然と分かれやすい。
そのとき、
前者に立つことが多いのが母です。
だから揺れる。
だから疲れる。
ここで大事なのは、優劣の話にしないこと。
「私のほうが大変」でもなく、
「夫が楽をしている」でもない。
まず見るべきなのは、
作業と責任がどう分配されているか。
不安を誰が抱え、
決定を誰が担い、
失敗したときの後悔を誰が背負う構図になっているか。
そこを曖昧にしたまま、
「気にしすぎ」で片づけてはいけません。
母の消耗は、
性格ではなく、分配の問題です。
ここを見誤ると、
母は自分を責め続けることになります。
◎ストレス対処の違いが、役割に変わるとき
母の消耗を
「感じすぎ」「考えすぎ」と片づけてしまう前に、
ひとつ整理しておきたい視点があります。
人は、同じ出来事に直面しても、
同じようにストレスを処理するわけではありません。
心理学では、
ストレスへの向き合い方には大きく二つの傾向があるとされています。
・問題焦点型
・情動焦点型
問題焦点型は、
「何をすれば状況が改善するか」を探し、
情報を集め、判断し、行動に落とし込もうとするスタイルです。
一方、情動焦点型は、
「この不安や揺れをどう抱えるか」に意識が向き、感情を感じ、言葉にし、共有しながら耐えようとします。
どちらが正しい、という話ではありません。
どちらも、人が不安に対処するための自然な反応です。
ただし、受験期に起きやすいのは、
この「違い」が、そのまま役割として固定されていくことです。
母は、
子どもの揺れに近い場所に立ち、
感情を受け止め、空気を読み、先回りして動く役に回りやすい。
父は、
全体を見渡し、距離を取り、
「最終的には何とかなる」という構えを保ちやすい。
ここまでは、違いです。
問題は、ここからです。
この違いが、
「母が感情を引き受ける人」
「父は日常を維持する人」
という形で固まっていくとき、
違いは偏りに変わります。
母は揺れ続け、
父は揺れない役に固定される。
すると母の側には、
不安・判断・調整・責任が次々に集まっていきます。
父が何もしていない、という話ではありません。
ただ、揺れを引き受ける役割が、母に集中していく構造が生まれるのです。
母が疲弊していく理由は、
感情的だからでも、弱いからでもありません。
ストレス対処の「違い」が、
家族の中で「役割」に変換され、
その負荷が母に偏っていった。
まずここを、事実として捉える必要があります。
◎家族は、最も反応する人に負荷を集める
ストレス対処の違いだけでは、
まだ説明は足りません。
もう一つ、見ておくべき視点があります。
家族は、無意識のうちに均衡を取ろうとします。
誰かが揺れれば、
誰かが安定側に回る。
誰かが前に出れば、
誰かが一歩引く。
それ自体は自然な働きです。
問題は、その均衡の取り方にあります。
均衡は、必ずしも平等ではありません。
多くの場合、
最も反応しやすい人に
負荷を集中させることで成立します。
母が敏感だから、
子どもの変化に気づく。
気づくから動く。
動くから、周囲は任せる。
任せられるから、さらに動く。
この循環ができあがります。
父が意図的に手を引いているとは限りません。
けれど、母が動く構図が安定すると、
父は「動かなくても回る」位置に立ちます。
そして家族は、その状態を
無意識のうちに“安定”とみなします。
母が疲れていても、
家庭が表面的に回っている限り、
構造は見直されません。
ここに残酷さがあります。
均衡は保たれている。
しかし、その均衡は
母の負荷の上に成り立っている。
母が動き続けることで、
父は日常を保てる。
父が日常を保つことで、
家庭は「問題ない」ように見える。
その結果、
母の消耗は可視化されない。
誰かが悪意を持ったわけではありません。
けれど、
最も反応しやすい人が、
最も引き受けやすい人が、
最も責任感の強い人が、
静かに負荷を抱え続ける構造ができあがります。
この循環が固定化すると、
母は「やめたくてもやめられない」位置に立ちます。
動かなければ回らない。
でも動き続ければ消耗する。
ここに、受験期に顕在化する歪みがあります。
違いの問題ではありません。
構造が、
誰に負荷を預ける形で安定しているか。
そこを見なければ、
母の消耗は個人の問題にされてしまいます。
◎起きているのは「違い × 放置 × 安住」
ここまでを整理すると、
起きていることは単純です。
違い × 放置 × 安住。
違いがある。
その違いが話し合われないまま続く。
やがて、それぞれがその位置に慣れていく。
父は「任せる」立場に安住する。
最初は、信頼だったのかもしれません。
「任せたほうがうまくいく」
「自分より適している」
そう思って一歩引いた可能性もあります。
けれど、任せ続けることは、
責任を共有しないことと紙一重です。
母は「私がやるしかない」に固定される。
最初は、必要だから動いた。
子どもが揺れていたから。
誰かがやらなければ進まなかったから。
その繰り返しが、
やがて前提になります。
母がやるのが当たり前。
母が把握しているのが当たり前。
母が決めるのが当たり前。
そして何かがうまくいかなかったとき、
後悔を強く背負うのも母になります。
これは構造的な偏りです。
◎ここから先は
ここまでは「なぜ母の負荷が増えていくのか」という構造の入り口です。
では、何が固定されたのか。
なぜ修正されなかったのか。
そして、この偏りをどう再設計すればいいのか。
ここから先では、
・「違い × 放置 × 安住」の正体
・母が自分を責めてしまう理由
・「気づいた方がやる」を壊す方法
・今日からできる再配分の具体策
を、具体的に解体します。
感情の話ではありません。
構造の話です。
https://note.com/hapihapi7/n/n65fc907c1cc4
