「家事育児は折半すべき」が母親を追い詰める理由
見えないタスクと構造的不平等
家事や育児を「50%ずつ折半すべき」という声をよく耳にします。
一見すると平等を約束する理想のように思えますが、実際には母親をさらに追い詰める“見えない暴力”として働いていることをご存じでしょうか。
なぜ正論に見える「折半論」が母親の苦しみを温存するのか。
本記事では、その構造的な欺瞞を明らかにし、私たちが目指すべき本当の「公正」とは何かを考えていきます。
「正論」が母親を追い詰めるとき
「家事育児は50%ずつ折半すべきだ」
こうした言葉を目にすることは少なくありません。
一見、もっともらしい正論に聞こえます。
しかし実際には、この言葉こそが母親をさらに追い詰め、しんどさを温存する「構造的な暴力」として機能しているのです。
なぜならこの「折半論」は出発点からして、すでに母親に不利な前提の上に立っているからです。
本記事では、母親を苦しめる「折半論」に潜む欺瞞を解き明かしながら、私たちが目指すべき本当の「公正」とは何かを考えていきたいと思います。
なぜ「折半論」は母親を救わないのか
「収入も時間も折半すれば公平」
そう言われると、筋が通っているように思えるかもしれません。
ですが、この考え方は大きな落とし穴を抱えています。
欺瞞① 「全員に当てはまる理想」の押し付け
家庭の状況は千差万別です。
収入の差、勤務時間、子どもの特性、地域のサポート体制。
それらを一切考慮せず、「50%」という単一の基準を絶対視すること自体が、現実を無視した暴論です。
欺瞞② 「見えるタスク」しかカウントしない
家事育児には、時間で測れる「見えるタスク」(皿洗い、洗濯、送り迎え)と、
時間換算が難しい「見えないタスク」(献立の段取り、学校行事の把握、予防接種のスケジュール管理、常時バックグラウンドで考え続ける“もしも”への備え)があります。
「折半論」は、この「見えないタスク」を完全に切り捨てます。
その結果、母親が心身をすり減らして背負い続けている負担をゼロと評価することになるのです。
つまり「折半」という言葉は、表面的な平等を装いながら、母親の苦しみを不可視化する欺瞞なのです。
「折半論」が温存する構造的暴力
このような考え方は、単なる意見にとどまりません。
むしろ社会全体の構造を無自覚に支える「壁」として働いています。
①論理を武器に感情を切り捨てる
「公平」「理想」といった論理的な言葉を盾に、母親の「しんどい」という訴えを「感情論」として退けてしまう。
議論の焦点であるはずの「苦しみの解消」が、そもそも論点から外されてしまいます。
②責任を母親個人に転嫁する
「嫌なら収入を増やして対価を払え」という言説にすり替わることで、構造的な問題が「母親の経済力・能力の問題」に矮小化されます。
これでは母親がいくら努力しても状況は変わりません。
実際には、「父親が快適な現状を変えたくない」という支配性が背景にあるにもかかわらず、「理想論」のポーズによってそれが覆い隠されているのです。
公平の基準を「現実」に引き戻す
では、どうすれば母親の負担は本当に軽減されるのでしょうか。
① 「負担」の定義を見直す
家事育児の公平性は、単に「時間」と「収入」だけで測れるものではありません。
精神的負担=メンタルロードを含めて可視化し、評価の基準にすることが不可欠です。
たとえば、タスク管理を夫婦で共有するだけでも「誰がどれだけ考えているか」が見える化され、認識のズレを埋める一歩となります。
② 固定値ではなく「納得感」を基準にする
50:50という数字にこだわる必要はありません。
家庭によっては40:60、70:30でも「お互いに納得できる」ならそれが公平です。
重要なのは「母親の苦痛が放置されないこと」。そのためには柔軟で現実的な対話が不可欠です。
「公正」への第一歩
「家事育児は折半すべき」という言葉は、一見平等を装いながら、母親を黙らせる無自覚な暴力です。
母親が感じるしんどさは、個人の気分ではなく「構造的に生み出された現実」です。
それを軽視する限り、誰も救われません。
必要なのは数字だけの平等ではなく、母親の声を基準に据えた「公正」な再設計です。
見えないタスクを可視化し、社会的に評価する仕組みを作ること。
そこから初めて、母親が窒息せずに生きられる未来が拓かれます。
この課題は母親だけでなく、社会全体に突き付けられた責任なのです。
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