なぜ父親は関わらなくても許され、母親は毒親と呼ばれるのか

子育ての不均衡




子育ての現場で、多くの母親が抱く違和感があります。
それは「子どもに深く関わらない父親は批判されにくいのに、正面から向き合う母親が感情を出すと“毒親”と呼ばれてしまう」という不公平さです。


母親だけが「常に冷静で献身的」であることを求められるこの二重基準は、母親を孤独に追い込み、葛藤を深めています。
この記事では、その不均衡の背景を社会的視点と母親の心情の両面から掘り下げていきます。








はじめに



子どもを育てる中で、多くの母親が感じる違和感があります。
それは「父親が子どもと距離を取っていても批判されにくいのに、母親が子どもに真正面から関わると感情的だと否定され、場合によっては“毒親”とまで呼ばれてしまう」という現象です。

この不均衡は母親個人の問題ではなく、社会が作り上げてきた構造そのものに根ざしています。




父親に向けられる「低い期待値」



父親は、子育てに関わらないことが“さほど問題にならない”環境にいます。
「仕事が忙しいから仕方ない」「休日に一緒に遊んでくれるだけでありがたい」という言葉が示すように、父親は部分的に関わるだけで高く評価される立場にあるのです。

裏を返せば、父親が子どもの日常に深く入り込まずとも、「家庭を支えている」という理由で批判を免れやすい。
つまり社会のまなざし自体にバイアスが存在しています。




母親に課される「過剰な期待値」



一方で母親には、「子どもの生活や感情に常に寄り添い、冷静であり続ける」という過剰な期待がかけられています。

少しでも感情を表に出すと、
「ヒステリック」
「感情的すぎる」
「子どもを潰す母親」
と、すぐにレッテルを貼られてしまいます。

母親が怒ったり泣いたりすることは、人間として自然な感情表現のはずです。
にもかかわらず、「母親である以上、感情を出してはいけない」という暗黙のルールが、母親自身を縛り付けています。




感情表現に潜むジェンダーの二重基準



興味深いのは、父親と母親で感情表現の評価がまったく異なることです。

父親が厳しく叱る → 「しつけに熱心」「父の威厳」

✅母親が感情をぶつける → 「ヒステリック」「毒親」

この二重基準は、歴史的に「母は子どもを育てる存在」「父は外で働く存在」とされた役割分担の延長線上にあります。

母親には「常に安定した受け皿」であることが求められ、父親には「関わればプラス評価」が与えられる。
この非対称性が、母親を一方的に追い込んでいるのです。




「毒親」という言葉の暴力性



本来「毒親」という言葉は、虐待や支配的な関わりを指すものでした。
しかし今では、母親が感情をぶつけた瞬間に軽々しく使われることがあります。

その言葉は母親の存在そのものを否定し、子どもとの関係を修復するチャンスすら奪ってしまいます。
「子どもに強く当たってしまった」「感情的になった」ことは、母親の資質を全否定する証拠ではなく、人として自然な反応です。
それを短絡的に“毒親”と断じる風潮こそ、母親の孤立を深める最大の要因になっています。




母親の感情は「問題」ではなく「情報」



大切なのは、母親の感情を「問題」として封じ込めるのではなく、「情報」として受け止め直すことです。

怒りや涙の裏には、
・子どもの将来への不安
・自分ひとりに負担が集中している苦しさ
・誰にも理解されない孤独
といった切実な背景が潜んでいます。

それは母親が壊れているからではなく、社会が母親に過剰な役割を押し付けているからこそ生まれるものです。




おわりに



子どもに積極的に関わらない父親は批判されにくく、真剣に向き合う母親は「感情的」「毒親」と言われる。
この不均衡は、母親が抱える孤独と葛藤をさらに深めています。

母親が感情を持つことは自然で健全なことです。
それを否定するのではなく、「なぜその感情が生まれたのか」を見つめることが、子育てを母親だけの重荷にしないための第一歩です。





子育ての「悩み」は、表面に見える子どもの態度や出来事だけではありません。
その奥には、心理や家族関係に根ざした“深い構造”があります。

私の記事では、子育てや思春期の親子関係をテーマに、「なぜそう感じるのか?」という視点を軸に、心理学・発達論・家族力動の知見から深く掘り下げて解説しています。


読むたびに、親としての視野が広がり、心が少し軽くなる文章をお届けします。