思春期の子育てにおける「あきらめる」とは
それは「見放すこと」ではなく、「手放す覚悟」である
親が「あきらめる」と聞くと、どこか敗北のニュアンスが漂います。
「もうこの子は無理だ」
「話しても意味がない」
そんなふうに聞こえてしまうのは、
私たちが「支配できる関係」こそが愛だと、どこかで信じてきたからではないでしょうか。
しかし、思春期という時期は、「あきらめる」という言葉の意味そのものを、親に書き換えさせます。
それは、子どもの人生に対して自分がコントロールを失うことを、愛として引き受けるという、静かな覚悟なのです。
「あきらめる」は、愛の成熟形
「あきらめる」という語は、元々「明らかに見る(明らむ)」という意味を持ちます。
つまり本来は、「現実を直視すること」、あるいは「幻想を手放すこと」を指していました。
思春期の子育てにおいて、この語が持つ本義は実に鋭く突き刺さります。
親の中にある「理想の子ども像」。
こうあってほしい、
ああするべき、
こうすれば幸せになる──
そういった無意識の期待や恐れが、親子関係を締めつける鎖になるのです。
思春期は、子どもが親から離れようとするフェーズです。
これは反抗ではなく、「親の期待から自分を取り戻す」ための、発達上の自然な動きです。
このとき、親ができることは、
「期待」ではなく「信頼」に舵を切ることです。
「もうコントロールできない」と絶望するのではなく、
「もうコントロールする必要がない」と悟ることが、この「あきらめ」の本質なのです。
「あきらめない親」が、子どもを壊すとき
ここで逆説的な問いを置きたいと思います。
なぜ、「あきらめない親」は、時に子どもを傷つけるのでしょうか。
それは、「あきらめない」という言葉の裏に、
“自分の理想を最後まで押し通す”という、他者への支配欲が潜んでいることがあるからです。
✅もっと頑張ればわかってもらえるはず
✅親として、最後まで戦うべきだ
✅この子を見捨てるわけにはいかない
一見、愛に聞こえるこれらの言葉の奥には、
「私の正しさを手放したくない」「私が変わるより、子どもが変わってほしい」という、
親自身の“未完の課題”が隠れている場合があります。
つまり、「あきらめないこと」が、親自身の幼さや不安の上に成り立っていることがあるのです。
このとき必要なのは、「信じて見守る」という名の放置ではありません。
そうではなく、“自分の内面を見つめ直す”という意味での、親自身の自立なのです。
「あきらめる」という美徳を、恐れずに選べるか
親として、どこまで介入すべきか。
どこからは信じて任せるべきか。
この線引きは、いつもグレーで、いつも不安です。
けれど、もしも「あきらめる」という行為が、
「あなたの人生を、あなたのものとして信じる」という親としての最後の贈り物だとしたらどうでしょうか。
私たちが「あきらめる」べきなのは、
子どもではなく、“親としての万能感”なのかもしれません。
「あきらめる」とは、愛のかたちを変えることです。
支えることから、見守ることへ。
教えることから、信じることへ。
育てることから、手放すことへ。
その変化に伴う痛みと静けさを、
どうか「敗北」ではなく「成熟」として、
引き受けてみてほしいのです。
思考の余白
✅あなたが今「あきらめたくない」と感じているのは、本当に“子ども”のためでしょうか。
✅それは、“親としての自分”を守るためではないでしょうか。
✅そして、もし「あきらめること」が、もっと深い信頼の表現だったとしたら、どう感じるでしょうか。