「私の正しさ」は誰のものだったのか

子どもの思春期が突きつける、価値観の崩壊と再定義



子育てとは、常に“問い”にさらされる営みです。


この子にとって何が最善か。
どんな言葉を選ぶべきか。
何を許し、どこに線を引くのか。

そして私たちは、数えきれない判断の中で、
「自分の中の正しさ」を軸にしながら、必死に子どもを守り、育てようとします。

けれど、子どもが思春期を迎えたとき、
その“正しさ”が通用しなくなる瞬間が訪れます。




信じてきた「正しさ」が、否定される痛み



子どもを守るために、育てるために、
私は自分なりに精一杯、考え抜いてきたつもりでした。


礼儀を教え、努力の価値を伝え、
時には厳しく、時には寄り添いながら、
「こうあるべき」を信じて、親としての軸を築いてきた。


けれど思春期の子どもは、それらの価値観に疑問を投げかけてくる。
遠慮なく、真正面から、率直に。
それはときに、痛烈な否定として響くこともあります。


「そんなの意味あるの?」
「なんでそれが正しいって言い切れるの?」
「私の気持ちはいつも後回しじゃん」


それを聞いた瞬間、胸の奥に突き刺さるのは、
ただの反抗ではない、“価値の崩壊”です。


これまでの選択も努力も、すべてを「間違いだった」と言われたような感覚。
築いてきたものが、一瞬で崩れていくような、底の抜けるような恐怖。




そして気づいてしまう、「その正しさすら刷り込まれていた」こと



さらに厄介なのは、子どもとのやり取りを通じて、私自身が気づいてしまうことがあるという点です。


「私が信じてきた正しさって、本当に私自身のものだったのか?」


その価値観は、親から受け継いだものかもしれない。
社会や文化、教育の中で、無意識のうちに刷り込まれてきたものかもしれない。


それに気づいたとき、次にやってくるのは、
深い虚無感です。


自分が一体、誰の人生を生きてきたのか。
何を信じてここまで来たのか。
自分という存在の「根」を失ったような、言いようのない喪失感。


それは、“子育てに悩む”というレベルを超えて、
自分という人間の再構築を迫られるような、
根源的な痛みを伴います。




「揺らぐこと」は、負けではない



ここで、多くの母親は迷います。
いや、むしろ逃げ場のない混乱の中に放り込まれます。


このままではダメなのか?
でも、じゃあ何を信じて子育てしていけばいいのか?
何が正しくて、何を手放せばいいのか?


けれど、ひとつだけ言えることがあります。
それは、「揺らぐことは負けではない」ということです。


むしろ、自分の価値観を問い直せるということは、それだけ自分が“生きた思考”を持っている証でもある。


型どおりの正しさをなぞり続けるのではなく、
今、目の前にいる“この子”と向き合うために、
自分の軸そのものを問い直せること。
それは、深い愛と知性の表れでもあるのです。




思春期は、親にとっての「再構築のフェーズ」



思春期とは、子どもにとってだけでなく、
親にとっての「脱皮の時期」でもあるのかもしれません。


これまで自分を支えてきた「正しさ」を手放し、
そこに新しい関係性、新しい自分を立ち上げていく時間。


それは、ものすごく怖くて、不安で、痛みを伴うけれど、
それでもその過程を通してしか、
“本当に通じ合える関係”はつくれないのだと思います。




「親である私」としてではなく、「人としての私」として



最終的に私たちがたどり着く問いは、こうなのかもしれません。


「私は、誰として、この子と向き合うのか?」


親として、教育者として、ではなく、
一人の未完成な人間として、
価値観を揺らし、問い直しながら、それでもつながろうとする。


その姿こそが、
子どもにとっての「信じられる大人の姿」になるのではないかと思うのです。




正しさではなく、関係性を支えるという選択



思春期の親子関係は、
“正しさ”のぶつけ合いによって崩れてしまうこともある。


でも、そこに一歩踏みとどまって、
「何のためにその正しさを握っているのか」
と自分に問いかけてみることで、
私たちはもう一つの選択肢に気づくことができます。


それは、正しさではなく、関係性を守るために生きるという道です。




最後に



思春期の子どもとの関係に悩むことは、
単に“育て方”を見直すという話ではありません。
それは、「私という人間の軸を、どう再定義するか」という深い問いに向き合う時間でもあります。


迷ってもいい。揺らいでもいい。
その痛みの中にこそ、関係性の再構築と、
あなた自身の新たな“人生の地図”が描かれていくのです。