男の子には感情で伝わらない─
母親の“翻訳ストレス”という見えない負荷
子どもを育てるという営みは、常に“伝える”という試みに満ちています。
「どうしてそんなことをするの?」「それはやめてほしい」「こうしてほしい」。
親は、日々の小さな場面で、無数のメッセージを投げかけ続けます。
しかし、相手が“男の子”であるとき、この「伝える」という行為は、ある特有の困難さを伴います。
それは、感情をそのまま伝えても、伝わらないという経験の積み重ねによって、次第に浮かび上がってくるのです。
「なんでわかってくれないの?」の正体
母親は、自分の気持ちを言葉に乗せて、子どもに語りかけます。
ときには怒りや悲しみ、驚きや不安といった、生々しい感情のままに。
けれど、男の子はその感情の波を、そのままは受け取りません。
むしろ、その背後にある“理屈”や“仕組み”に目を向けようとします。
「どうして怒ってるのか」
「どこがいけなかったのか」
「何をすれば正解なのか」──
そうした問いが、男の子の中には自動的に走ります。
つまり、母親が「感情で語る」とき、男の子はそれを“情報”として処理しようとするのです。
そしてそのとき、母親には無意識のうちに、「感情を理論に翻訳する」という作業が求められているのです。
感情 → 理論 → 言語化 の三段階
この構造をもう少し丁寧に見てみましょう。
母親の側には、まず「感じたこと」があります。
たとえば「すごく疲れているのに、宿題もせずにダラダラしている姿を見て、イライラした」。
ここからが問題です。
この「イライラ」をそのままぶつけても、男の子には伝わらない。
だから母親は、こう翻訳します:
✅イライラの中身を分析する(疲れている+約束が守られていない+将来の不安)
✅その感情の理由を論理的に構造化する(「やるべきことをやらないと、困るのはあなた」)
✅その構造を、わかりやすく言語化する(「今やるべきことを後回しにすると、自分が困るよ」)
この三段階のプロセスは、“感情を伝える”というより、もはや“論理的説得”に近いのです。
なぜそれが「母親にとってのストレス」になるのか
ここで重要なのは、母親が常に「変換機」として機能させられているという点です。
自分の内側に起きている“本音の感情”と、子どもに届く“外向きの言語”とのあいだに、乖離が生まれる。
言っていることは正しい。でも、言いたいのはそれだけではない。
伝えたいのは「私はつらい」「わかってほしい」「もう限界かもしれない」──そんな、もっと感覚的で直感的な“心の声”なのです。
それでも、男の子にそれが届かないと知っている母親は、自らの感情を“翻訳”し続けるしかない。
この繰り返しが、やがて「母親であることそのものが、しんどい」という感覚につながっていきます。
「論理」でつなぐ関係性に、感情の居場所をつくるには
では、どうすればいいのでしょうか。
ひとつの提案は、“感情を直接伝えないこと”を責めないことです。
母親自身が、「ちゃんと翻訳できなかった」と自分を責めないこと。
感情は、そもそも“理屈で説明されるためにあるもの”ではありません。
また、母親自身が誰かに“感情のまま”受け止めてもらう場所を持つことも大切です。
共感してくれる友人、専門家、あるいは文章という形でも構いません。
そしてもうひとつ。
「母と子の言語は違う」という前提を、悲しみではなく“事実”として受け取ること。
男の子との関係性においては、伝える努力と同時に、「伝わらないことを前提に、どう関わるか」という視点も必要になるのです。
おわりに──母親という“変換機”にされないために
母親という役割において、
「愛しているからこそ、伝えたい」「でも、伝わらない」「だから翻訳する」。
このプロセスは、決して間違っていません。むしろ、愛情と知性の証拠です。
けれど、そのたびに、自分の感情を見えなくしていくような在り方には、どこかでブレーキをかける必要があります。
母親もまた、ひとりの感情を持つ存在であることを忘れないために。
翻訳しないと伝わらないのだとしても、
翻訳される前の、あなたの感情にも、ちゃんと価値があるのです。