いつしか
ひとつひとつの
過程を
そして
経験を
「通り過ぎる」程度に扱うことに
慣れ親しんだ


そのひとつひとつで
立ち止まり
こみ上げるものを
「感じ」「味わう」

そんなシンプルなことが
いつから
出来なくなったのか



「感情」という
「心」を兼ね備え
生かされていることの真実に
向き合わず


どうして
抑え込むことにばかり
明け暮れるのだろう




「客観的に」
「俯瞰して」
そんな視点は
「心」を置き忘れることを
表さず


「機械的に生きろ」とは
同義ではない


心が素直に感じることを見失い
いったい何を
信じていくのか



感情に溺れることを
恐れるな

溺れかかった位で
あきらめるな

そして

キレイ事を並べて
誤魔化すな


浅くなぞるだけで
何が築けるというのだろう



本気で溺れてこそ
自分の無力を知るだろう


そして
無力にならなければ
浮き上がれないことを
知るだろう


余分なものを
手放さなければ
底をどれだけ蹴り上げようとも
浮くことはなく


いつまでも
何かにしがみつき
浮き上がれないから
振り回される
(それが執着)



手放しても
なお
自力でもがき続ければ
水面までは程遠く


何もかも
自分の力さえ
手放さなければ
いつまでも
溺れ続けるだろう


そう
何もない自分になることこそが
「溺れる」に
終止符を打てる
唯一の方法であることは
本気で溺れてこそ
知ることが出来る


だからこそ
何もない自分を
信じることに
気付けるというのに



溺れることは
振り回させることではない


どんな感情にも
勇気を出して
溺れにいこう


そして
無力な自分へ戻り
また
浮き上がってこよう



そうして
築いた信頼こそ
自信となり
自分を支える力となるのだから