「どうして勉強しないと
いけないのか?」
…と
子供に聞かれたら
どう答えるか?
ということについて
テレビでやっていた
(*今夜のつぶやきは、かなり濃く&長いです……)
ちょうど
小学三年生の息子も見ていて
興味を持っていたこともあり
結構真剣に考えた
けれども
なかなか私のなかに
「これだ!」という
答えは見つからず
テレビでは
時代の寵児と呼ばれた方や
某閣僚
映画監督や弁護士
脳科学者など
それぞれその理由を
挙げていたけれど
「勉強出来ることは権利なんだ」
とか
「将来なりたいものがあるのなら
その夢を叶えるためには
勉強して知識がないといけない」
と言われても
あまりに「正論」過ぎて
大人である私でさえ
その答えで
自分で自分を
「納得させる」ことは
出来なかった
だって
「世の中には勉強も出来ず
働いている子供も沢山いるんだから
勉強出来るだけでも幸せなこと」
なんて言われても
毎日学校に行くことが
「日常」である子に
そしてそれが
「当たり前」になっている子に
勉強してくても出来ない
子たちの気持ちが
自分のことのように
リアルに想像出来るだろうか?
そしてその上で
勉強出来ることに
幸せを感じ
勉強に励むことが
出来るだろうか?
それはまるで
大人である私たちでさえ
日々の生活の中で
毎日朝を迎えられること
毎日ご飯が食べられること
着るものが選べ
住む家があり
家族が一緒に暮らせること
これらの
「当たり前」だとしていること
全てに
一瞬一瞬
感謝の気持ちを感じて
過ごすことの難しさと
同じくらい
難しいことを
子供たちに
正論として
押しつけているのではないか?
……と感じ
何か違う……と
違和感を覚えた
そして
そもそも
「勉強」は
「しなくてはならない」ものなのか?
「勉強」って
国語とか
算数とか
数々の「科目」のことなのか?
それだけで括れるものなのか?
……と
***
私は息子が生まれたとき
生きるということは
その過程で経験する
全てが
学びであり
命を全うするときまで
自ら学ぶ気持ちや
姿勢を
持ち続けて欲しい…という
想いを込めて
名前を決め
漢字を決めた
「学ぶ気持ち」は
「知らないことを知りたい」と
感じる気持ち
そして
そこに喜びを見いだせる心
親として
その根本の心を
どう育むことが出来るのか?
育める環境を
提供出来るのか?
きっと
言葉だけでは
解決出来ないことなんだと
気付いた
言葉だけで
何とか
「きれいに」説明しようとするから
伝えることが
難しくなっている
親の口癖を
仕草を
子供がそのまま真似るように
やっぱり
自分自身の生き方で
伝えていく事が
大切なんだろう……し
もう
伝わっている所も
沢山あるんだ……と
***
「子供に選択肢を与えるのが親の仕事」
…という事の前提には
親である自分が
まず
どんな生き方を選択しているか
…ということが
ちゃんと繋がっている
だって
自分自身に許可できない
選択は
人にも許可はできないものだから
***
そして冒頭の
「勉強しないといけない」
「勉強しなければならない」
……への
引っ掛かりは
過去の自分や
今の自分が
自分自身に
押し付けてきたもの
その想いが
強ければ強いほど
きっと
子供にも
「~ねばならない」を
強く押し付けていて
更にそれは
勉強に限らず
生活のあらゆる場面で
生じていること……
その根本への
気付きへ
導くための
サインだったのかな?
……と
もし息子から
真剣に
「どうして勉強しないといけないの?」
と、聞かれたら
きっとそれは
「勉強」のことのみを
指すのではなく
「勉強」を含む
生活全般において
押し付けられている
窮屈感を
そして
苦しさを訴える
サインなのだろうと
心に泊めておこう……と
いけないのか?」
…と
子供に聞かれたら
どう答えるか?
ということについて
テレビでやっていた
(*今夜のつぶやきは、かなり濃く&長いです……)
ちょうど
小学三年生の息子も見ていて
興味を持っていたこともあり
結構真剣に考えた
けれども
なかなか私のなかに
「これだ!」という
答えは見つからず
テレビでは
時代の寵児と呼ばれた方や
某閣僚
映画監督や弁護士
脳科学者など
それぞれその理由を
挙げていたけれど
「勉強出来ることは権利なんだ」
とか
「将来なりたいものがあるのなら
その夢を叶えるためには
勉強して知識がないといけない」
と言われても
あまりに「正論」過ぎて
大人である私でさえ
その答えで
自分で自分を
「納得させる」ことは
出来なかった
だって
「世の中には勉強も出来ず
働いている子供も沢山いるんだから
勉強出来るだけでも幸せなこと」
なんて言われても
毎日学校に行くことが
「日常」である子に
そしてそれが
「当たり前」になっている子に
勉強してくても出来ない
子たちの気持ちが
自分のことのように
リアルに想像出来るだろうか?
そしてその上で
勉強出来ることに
幸せを感じ
勉強に励むことが
出来るだろうか?
それはまるで
大人である私たちでさえ
日々の生活の中で
毎日朝を迎えられること
毎日ご飯が食べられること
着るものが選べ
住む家があり
家族が一緒に暮らせること
これらの
「当たり前」だとしていること
全てに
一瞬一瞬
感謝の気持ちを感じて
過ごすことの難しさと
同じくらい
難しいことを
子供たちに
正論として
押しつけているのではないか?
……と感じ
何か違う……と
違和感を覚えた
そして
そもそも
「勉強」は
「しなくてはならない」ものなのか?
「勉強」って
国語とか
算数とか
数々の「科目」のことなのか?
それだけで括れるものなのか?
……と
***
私は息子が生まれたとき
生きるということは
その過程で経験する
全てが
学びであり
命を全うするときまで
自ら学ぶ気持ちや
姿勢を
持ち続けて欲しい…という
想いを込めて
名前を決め
漢字を決めた
「学ぶ気持ち」は
「知らないことを知りたい」と
感じる気持ち
そして
そこに喜びを見いだせる心
親として
その根本の心を
どう育むことが出来るのか?
育める環境を
提供出来るのか?
きっと
言葉だけでは
解決出来ないことなんだと
気付いた
言葉だけで
何とか
「きれいに」説明しようとするから
伝えることが
難しくなっている
親の口癖を
仕草を
子供がそのまま真似るように
やっぱり
自分自身の生き方で
伝えていく事が
大切なんだろう……し
もう
伝わっている所も
沢山あるんだ……と
***
「子供に選択肢を与えるのが親の仕事」
…という事の前提には
親である自分が
まず
どんな生き方を選択しているか
…ということが
ちゃんと繋がっている
だって
自分自身に許可できない
選択は
人にも許可はできないものだから
***
そして冒頭の
「勉強しないといけない」
「勉強しなければならない」
……への
引っ掛かりは
過去の自分や
今の自分が
自分自身に
押し付けてきたもの
その想いが
強ければ強いほど
きっと
子供にも
「~ねばならない」を
強く押し付けていて
更にそれは
勉強に限らず
生活のあらゆる場面で
生じていること……
その根本への
気付きへ
導くための
サインだったのかな?
……と
もし息子から
真剣に
「どうして勉強しないといけないの?」
と、聞かれたら
きっとそれは
「勉強」のことのみを
指すのではなく
「勉強」を含む
生活全般において
押し付けられている
窮屈感を
そして
苦しさを訴える
サインなのだろうと
心に泊めておこう……と