忠(ちゅう)とは、儒教における重要な徳目の一つであり、
正直で裏表のないことをあらわし、君臣間において重要とされる徳目である。
また主君に尽くすという「まごころ」を忠義という。

金八先生風に言うと「口と心を線で結ぶ」漢字を書きます。

武士道の考え方の中においては君主(殿様)への尽くす精神としてかなり重要とされています。

しかしながら現代に殿様はいません。
もし忠義を果たすとなるとせいぜい仕事上でくらいしかありません。

ある意味、民主主義である以上、一人一人が君主なのかもと思ってしまいますが
それは日本人の忠誠心の深さを危険視した外国の戦後処理の影響であり、
「平等」という名のもとにリーダーを育てなくなった日本の教育の結果だと僕は思っています。
戦後処理に関しては「武道禁止令」という法令が戦後に出されたことも含めてまた書きたいと思います。

話は戻って現在の日本には「忠」が欠落しているという事に関して時事と重ね合わせるのならば
「殿のためなら死ねる」と思えるほどの殿(武将のような人)が政治の世界にいないと僕は思います。

天皇は国民の象徴とされ権力を失い、
国家の権力を持つ政治家は自身や周りの権力を保つための政治運営をしている感じが強い。

僕はある程度の独裁は必要だと思っているし、でなければ物事は決まらないし、進まない。と考えています。

君主が正しい判断をすれば問題ないが、間違った判断をしてるときは正しく導き直すのが
部下の役目でもあると思います。内閣総理大臣がコロコロ変わる日本ですが本来は総理を主軸として
国会議員や官僚、役人が総理を支えると言うことを考え、野党も与党も間違ったことは直言し運営してゆけば
今のようにコロコロ変わる政治運営にはならないと思います。
しかしながら今はカバーではなく権力争いをゲームのように行い排除しあうのが現状。いかに落とすか…。
「忠義」など何処にもありません。

それは「総理に対する忠義」ではなく「日本国に対する忠義」が無いと言うことを明確にしています。


では、武士がいた頃の君主はどのような考え方をもっていたのか?

武士から「忠」を受ける側の殿の考え方、教育、等を簡単に知るのに何がよいか?ということを
考えた時に「家訓」というものが浮かんできました。

その中でも上杉謙信の残した家訓は非常に深いものがあります。

謙信が人の上に立つ人として自分の子供達や孫に残した言葉。

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「心に物なき時は、心広く體泰なり」

心を見失わせるような物がない時は心が広々として、体がゆたかである


「心に我儘なき時は、愛敬失わず」

わがままに振舞うことがない時は、全てを愛し、慈(いつく)しむことを忘れないものだ


「心に慾なき時は、義理を行ふ」

惜むようなことがない時は、他人への義理や思いやりを忘れないものだ


「心に私なき時は、疑ふことなし」

自分勝手な心がない時は物事に対しても疑うことはない


「心に驕(おご)りなき時は、人を敬ふ」

思いあがった心がない時は他人を尊び敬う気持ちになる


「心に誤りなき時は、人を畏れず」 

やましい心がない時は他人を恐れることがない


「心に邪見なき時は、人を育つる」

心に偏見がない時は人を立派に育てられる


「心に貪(むさぼ)りなき時は、人に諂(へつら)うことなし」
 
心に欲が深くない時は他人におべっかを使い、へつらうこともない


「心に怒りなき時は、言葉和かなり」

心に怒りがない時は言葉は柔らかく 和やかになる


「心に堪忍ある時は、事を調ふ」

心に耐え忍ぶ努力がある時は物事は順調にすすむ


「心に曇りなき時は、心静かなり」

心が曇りなく晴々とした時は、また心も穏やかである


「心に勇ある時は、悔やむことなし」

心に勇気がある時は後悔することはない


「心賤(いや)しからざる時は、願い好まず」

心が卑(いや)しくない時は無理な願いを好まず努力して掴める


「心に孝行ある時は、忠節厚し」

心から尽くそう心がける時は真に仕えようとする気持ちが深い


「心に自慢なき時は、人の善を知り」

心に自惚れ(うぬぼれ)がない時は、他人の優れた素晴らしさを知ることができる


「心に迷なき時は、人を咎(とが)めず」

心にしっかりとした信念がある時は他人を責めないものだ


【上杉謙信公家訓16ヶ条 「宝在心」】
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ごく当たり前だけど忘れてしまいがちなこと、わかっていても実践できないこと、多々あり。

日々こうゆうことを意識して生活をする。

なにがスゴイかというと一国の主であるのにもかかわらず

「他人をどうこうするのではなく、自分自身がこうありなさい」

と教えているということ。

自分自身に言い聞かせると共に親という教育者としてこうゆうことを子供に教えていかねば…。

と思います。