2023年の秋、横行結腸に癌が見つかり、その後の精密検査で肝転移が確認された私は、2024年1月、腹腔鏡手術にて大腸の右半分と肝臓の一部を切除するため入院しました。
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入院3日目 手術直前
女性スタッフに導かれ、私は手術室が居並ぶ巨大なフロアへと一歩足を踏み入れた。
と、その瞬間、空気が変わったのを感じた。
『めっちゃひんやりしてる…』
先ほど待機していたエレベータ前ホールに比べると俄然室温が低かった。
何部屋も連なる手術室。その対面には変わった形状の銀色のシンクが並んでいる。
『これって、何かで見たことあるけど、医師が腕の上の方までを念入りに洗うための洗い場なのかな?』
普通のシンクよりも、ずっと深い形状に見える。
目に飛び込んでくる銀色の設備機材とひんやりとした室温のせいで、このフロアが何かの工場のように思えてくる。
各手術室の前では、パジャマ姿の患者さんを真ん中に、医師や看護師がその周りを取り囲んでミーティングのようなことをやっている。
『うわぁ、今日一日で、こんなに手術する人がいるんだなぁ…』
なんとも壮観な眺めだ。目に映るものすべてが物珍しい。
そんな光景を眺めつつ歩いていくと、ほどなくして私が手術を受ける部屋の前に到着した。
すでに医師らが待機しているようだ。
皆さん、頭からつま先まで覆われていて、目だけを出しているので、誰が誰だかよくわからない。
もっとも誰がいるのかなんて、確認しようと思うほどの精神的余裕もその時の私にはなかったけれど…。
オペ看護師さんはふたりいらっしゃった。
先輩看護師と、新人の雰囲気漂う後輩看護師、といった感じのおふたり。
先輩看護師さんは米倉涼子か?と見まごうような目力美人!
綺麗にカールした長いまつげが、ぱっちりとした美しい目元を彩っている。
エクステかな?(この期に及んでこういうところはしっかりチェックしてしまう…)
この方、「ブラックペアン」の趣里が演じた、触れば切れてしまうような鋭さのある、凄みのあるスーパーオペ看護師、といった風情が漂っている。
病棟の看護師さんとは雰囲気が全然違う。ちと、こわい…。
しかし、めちゃくちゃ仕事ができそう…。
もうひとりの後輩看護師さんは、先輩の華やかさとはまた異なった美しさを醸し出している優し気な物腰の看護師さん。
でも、やはり病棟の看護師さんとは違った、ピリッとした緊張感を漂わせている。
手術室の前で立たされる私。
周りに人が集まり始める。
後輩看護師さんが私の前にいらして、PCを確認しながら、「お名前と生年月日を言ってください」とおっしゃる。
私はなるべくはっきりと自身の名前と生年月日を言う。
安心してください、私、ビビっておりませんよ、とアピールするが如く…。
その後、後輩看護師さんから、これから行われる手術内容や輸血のことなど、諸々の確認事項などを念入りに確認される。
なんとなく試合前の「宣誓!」のような感じである。
それら「宣誓」の儀式が終わると、いよいよ俎板の上の鯉になるべく、私は手術台へと導かれた。
履いていた靴を脱ぎ、自分で手術台の上にあがる。
パジャマの上衣を脱ぐと、さっ、とタオルがかけられ、そのまま横たわる。
色んなセンサーと思われるものが、素早く体にペタペタとくっつけられる。
後輩看護師さんの動きに、先輩看護師さんが注意をしたり、指示を出したりしている。
「落ち着いて~(低い声)」
と後輩看護師に静かに喝を入れる先輩看護師。
「はい」
と注意されつつも冷静にてきぱきと準備を進める後輩看護師。
もうひとり、一緒になって後輩看護師さんに指示を出しながら、準備を進めてる方がいる。
あ、この方は私に硬膜外麻酔を勧めたあの女性麻酔科医だ。
3人の女性達が、色んなものを私の体にくっつけたりしながら素早く手術準備に取り掛かっている。
私は寝っ転がったままドキドキしつつ、それらの様子をうかがっている。
執刀医たちは私の足元の少し離れた所で、雑談をしながら準備が終わるのを待っているようだ。
彼らはリラックスしているような雰囲気…。
「ピ、ピ、ピ、ピ…」
といつのまにか室内に電子音が響き始める。
これってもしかして、私の心拍音かな?
「ピ、ピ、ピ、ピ、ピ、ピ…」
ちょっと早い?
そりゃそうだ、今、私はピークに緊張しております…。
「それでは硬膜外麻酔のカテーテル、入れますね」
と麻酔科医。
ついに来た! 噂のあれだ…。
「それじゃあね、こうやって体を丸くしてくださいね。うん、ここをこうして。そう、ここを見るようにしてみて、そうそう…」
などと麻酔科医の指示を受けながら姿勢を変え、体を海老のように丸く曲げる。
後輩看護師さんが動かないよう私の体をガシっと強く押さえつける。(ひぇ~っ…)
曲げた背骨の辺りを探る麻酔科医。何かが触れたような気がする。
部分麻酔の注射をしたようだ。
けれど、チクッとも、痛くも、なんともなかった。
しばらくして、カテーテルが挿入された様子。
けれど、なんの感触もない。
痛みはもちろん、何かを入れられたような感覚もまるで感じなかった。
『わ~、すごい! この先生、上手いなぁ。もしかして名医かも?』
心の中で拍手喝采。
カテーテルが背中に固定され、また仰向けにされる。
これでほぼ準備が整ったようだ。
「それじゃあ、これから麻酔が入っていきますね~」と麻酔科医。
「はい…」と私。
するとひょっこりと大腸外科の主治医が顔を近づけてきて、
「はい、それじゃあ、がんばりましょう~」
と満面のニコニコ顔でおっしゃった。
「はい」と私も笑顔で答える。
クールな印象だった主治医の素敵なニコニコ顔を見て、ちょっと安心した私。
怖れの強風にあおられ、小さく縮こまっていた心に希望の光が灯されたようだった。
『大丈夫。きっと先生はうまいことやってくれる…』
そう、思って力が抜けてくる。
あとは寝るだけや…。
真上に輝く手術室の照明を見ながら、意識がなくなるのを待つ。
徐々に視界がぼやけていく。
『あれ? 全身麻酔の時って、噂ではいきなりブラックアウトする、みたいなこと聞いたけど…。』
ゆっくりと麻酔が入っているのだろうか。いきなり意識がなくなる、という感じではなかった。
視界がゆっくりとゆらめいてきて、ぼやけ始める。
目をつぶろうか、と思ったけれど、ふと、意識がなくなる限界まで目を開けててみようか、と妙なことを思いつき、可能な限り目を開けたままでいることにする。
けれど、そんなことを思ったのも束の間、すぐに私の意識は遠のいていった。