ねじ式
つげ義春
嶋中書店 アイランドコミックス
全1巻
発行日 2002/10/23

 

上半身裸の青年が、右手で左腕を押さえて海から上がってきた。

彼の左腕は、メメクラゲに噛まれて、静脈を体外にはみ出させており、かつ、千切れていた。だから、手で押さえていないと血が溢れてくるのだ。

不案内な漁村を彼は人に尋ねながら医者を探して歩くが、さっぱり見つからない。仕方がないので線路上を歩いて隣町へ行くことを決意する。そこへちょうど汽車がやってきた。狐の面を付けた運転士は、駅でも何でもないところで汽車を停め、隣町へ行きたいという彼の願いを聞き届ける。しかし汽車は、反対方向へ走り出した。

 

そりゃあそうだろう。作品では汽車がどちらからやってきて、どちらへ向かうか明確には記述されていないが、彼が向かおうとしている方向からやってきたようであるから、そのまま進めば、元に戻るに決まっているではないか。

 

彼はさきほどの漁村へ連れ戻されてしまった。汽車はいつのまにか線路から離れて、家々の隙間の路地にねじ込むように走っていた。彼は決意する。こうなったら徹底的にこの村で医者を探すぞ、と。しかしその彼が目にするのは、眼科医ばかりであった。目の前にも、その先にも、手前にも、眼科ばかりが並んでいる。そして彼はついに、金太郎アメで財をなした工場のようなビルにたどり着く。

 

このあとも、この物語は続くのだが、まったく意味がわからない。

著名な作品であるし、「わからない」と言うのが悔しくて「ふう~ん」と思うことにしていたが、さすがにこの年になって「わかった風な態度をとってまで」カッコつけようとは思わない。わからないものは、わからないのである。

 

その後、彼は、金太郎飴ビルの上階で開業している産婦人科医の女医と出会い、セックスをしながら治療を受ける。その結果、彼の静脈は腕からはみ出した状態のまま、千切れた血管をバルブでつながれる。このバルブのネジは決して締めてはいけないと注意を受ける。なぜなら、血の流れが止まってしまうからである。

 

そして彼は、自らモーターボートを運転し、漁村を離れる。

 

ここには書かなかったが、時々背景や人物に、なにか禍々しさを感じるものが描かれている。世の中のイビツさや、腹黒さ、全体主義や戦争への恐怖などを私は感じるが、何を感じるかは人ぞれぞれでいいことだと思う。


おそらくこれは夢の中の世界である。夢が故の脈略のなさと、夢だからこそ腹の底が冷えるような恐怖に襲われることもなく、もがけばなんとかなるんじゃないかという楽天的な思考。この楽天性による次なる行動。


作家が見た夢をそのまま漫画にしたのではないかという評もあるそうだが、私はそうは思わない。夢というのは、よほど直後にメモでも残さない限り、覚えていられるものではないからだ。だが、それでも私は、これは作者の見た夢であろうと思う。

 

自身の経験であるが、何度も何度も、同じ夢を見る。そして、2度目、3度目となると、夢の中のストーリーが少しずつ進んで行ったり、前回の夢より少し状況が好転したりする。

 

自分の場合、繰り返し見る夢にはいくつかのパターンがあるのだが、そのひとつに、「海外へ旅立つために飛行機に乗る」というのがある。これがなかなか先へ進まない。まずは荷物がまとめられない。フライトの時刻がどんどん迫っているのに、ちっとも荷造りができないのだ。だが、何度目かの夢で、現在時刻を勘違いしていたことに気づく。焦らなくても、荷物を準備する時間は十分あったのだ。

 

だが、次の夢では、やっぱり時間に追われている。あるいは、荷造りを終えて空港へ向かう電車に乗っている。だが、電車の乗り継ぎがうまく行かない。あるいは、電車が間に合わない。荷物が多すぎて、停車中に荷物を電車からホームに運び出せない。乗らなくてはならない電車に乗れないこともあった。電車が来ないうちに時間が過ぎたり、電車が目の前に来ているのに、なぜか乗れなかったり、タッチの差で発車してしまったり。パスポートを持ってきていないことに気づいたことも何度もある。だが、取りに帰る時間があったり、なかったり、その時により違う。

 

ありとあらゆるパターンがあった。さすがにこれだけ繰り返して夢を見たら、覚えている。だから、「ねじ式」は、たった一度の夢ではなく、何度も何度も繰り返してみた夢の記憶をつなぎ合わせたものだろうと、私は推測する。

 

ところで、私の「海外へ出かける」夢であるが、最終的には空港についた。しかし、機材トラブルか何かがあってフライトキャンセルになり、海外へ行くことそのものができなくなったのだ。そして、二度とこの夢は見ることが無くなった。


腕に外付けのバルブネジを従えたままではあったが、治療を終えてモーターボートで漁村から去る彼。これでこの夢は終焉を迎えたのである。

 

「ねじ式」ほど著名な作品など、いつでも買えるだろうと思っていたが、漫画が隆盛を極めるのと同時に、本というものがどんどん売れない時代になり、売れないから次々と新刊を出す必要に迫られ、その陰で古い出版物がいつまでも残されるということが困難になって、重版されることなく廃版になる。そんな現実が押し寄せてきているのを実感したので、たまたまコンビニ版を見つけたときに、慌てて購入した。

 

「ねじ式」は「つげ義春自選集①」となっているが、その後、コンビニで➁以降を見かけたことはない。

 

後の知ったことだが、「メメクラゲ」は誤植であり、正しくは「××クラゲ」だそう。よく年代を示す「20××年」といった表現があるが、その「××」である。


一方、紙の本にこだわらなければ、電子出版により、漫画の絶版は無くなった、といえる。新しい時代に突入した。

 

(漫画所持作品リスト 1371)