私が15歳ではなくなっても。 
あむ
ファンギルド コミックアウル
全2巻
1巻発行日 2021/11/17
 
大人たちは色んなことを考える。それが子供たちの将来と成長を願ったものであり、かつ子供たちも受け入れていたとしても、時として滑稽なものだ。
この漫画の3コマ目に、「1/2成人式 将来の夢」というタイトルされたペーパーが登場している。「大人になる」ことは、子供たちにとって憧れだ。「大人になんかなりたくない」とか「大人ってどういうことなんだろう」とか「大人になるのが怖い」などの意識が育つのは、おそらくもう2~3年たってからだろう。10歳の少年少女にとって、大人が少しばかりの技術をもって動機付けすれば、「1/2成人式」のイベントや作文など、彼ら彼女らは簡単にその意図に乗ってくるだろう。
 
だけど僕は、そういう見え透いた大人の手口というのが子供の頃から嫌いだった。子供をうまく操ってやろうという魂胆が見え隠れし、どこか薄ら寒いものを感じていたのだ。大人になった今でもそう思う。「道徳」の教科書に出てきた「いかにも」なお話は大嫌いだったし、今でも読んだら多分、嫌いだろう。
 
どうして「まっすぐに育って欲しい」という純粋な気持ちだけではダメなんだろう?
策を弄するから、子供は「まっすぐ」に育たないのだと思う。策を弄するから、陰で大人の目を逃れながら、いじめなどが蠢くのだ。こんな意見は極論であることはわかっている。だが、ひとつの側面であることは確かであるから、こんなことを声を大にして言う大人がいても、まあいいだろうと思って、この文章を書いている。
 
さて、本作。スクールカーストで下位に位置し、いじめの対象になっていたシイナは、ネットで顔を隠したまま裸を晒して投げ銭をもらったり、パパ活でオジサンとの食事に付き合ってお小遣いをもらうことで、かろうじて自己の存在を確立していた。
 
しかしある日、母親に気づかれ、配信中に部屋に入って来た母親に叱られ慌てたために、画面に自分の顔が映ってしまい、学校にも身バレしてしまう。
 
一方、クラスメイトでシイナをいじめる側だったココアは、父親の素行に疑問を持つ。そして、父親を尾行してつきとめた相手は、シイナだった。
 
ココアの両親は夫婦関係がうまく行っておらず、ココアの父は自分の娘と同年代の女の子と関係することを犯罪行為と認識しながらも、鬼気迫る勢いで迫ってくるシイナに翻弄され、やがてその異常性に自ら吞み込まれてゆく。
 
それはまるで、娘の目の前で、父親は、女子高生にレイプされるかのような性交であり、その最中にシイナココアに刺されるのだった。
 
大人が年端もいかぬ子たちを、性の対象にしたり、金儲けの道具に使ったりするのは、けしからんことである。だけど、このようなことは昔から行われてきた。10代前半の子供が売春させられたり、(悪事の片棒を担ぐわけではないが)労働力として使われてきたのである。それが良くないことと定義づけられたのは、最近のことではなかったか。何が正しいかは時代によって変わるのである。
 
そして、その時代は大人たちによって作られたものであり、子供たちはそれに従わざるを得ないのである。それは仕方ないことではあるが、だからといって子供たちを大人の都合で押さえつけていいものではない。
 
それが子供たちの未来を考えた結果であったとしても、僕は「道徳の教科書」や「1/2成人式」に、大人たちからの「押さえつけ」を感じているのだと思う。
 
ところで、シンガーソングライターの沢田聖子(さわだしょうこ)さんの楽曲に、「ティーンエイジャー」というのがある。この曲で繰り返されるフレーズに「違う、何かが違う、違う、違う、何かが違う、違う、違う、違う。いつもそう思ってたあの頃」というのがある。そして、エンディングの際のリフレインで、「いつもそう思ってたあの頃」の歌詞が、「いつもそう思ってた今でも」と変化する。
 
僕はこの曲が大好きなのだが、それは、「あの頃」だけでなく、「今でも」と変化するからだ。「あの頃」の違和感を、大人は今でも感じるべきなのだ。
 
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