ミネルヴァの梟
ただひたすらに現代を考察・哲学していくだけ。なぜという不安からの解放への答えではなくヒントとなりしか否か…。
Amebaでブログを始めよう!

いじめの発生原因

◆いじめの原因は、先生からのいじめがなくなったらか。


 いじめがなぜ発生するかは、人間には根本的に集団的一体感を得たいという欲求があり、それを充足する方法を常々探しているから。
 人間的経験の初期段階にある小中学生は、充足する手段を本来は体育やクラブ、リトルリーグなどに集団的一体感を得て充足することができるが、昨今の傾向としては、個別的自我があまりにも特別視されるがゆえに、個が不安定になっている。


 このことから、いじめという訴求的かつ即効的方法、つまりある対象物を同時に攻撃することによって、攻撃集団という団体に個が格上げされ、個の不安感を一時的に麻痺させることによる欲望、このような集団的結束欲望を充足させるのであった。


 もともとは、社会的抑圧や、父性によるおしきせ、儒教的ヒエラルキーなどの非とさせることが多いもののなかに、社会の潤滑油的役割を果たしている機能があることが存在する。
 これを単なる社会主義の抑圧的残骸と考えるにはまだ早計である。このなかになぜ、いままで存在し続けてこれたエートスがあったのかを知る必要がある。


 さてでは子どもにおけるいじめの発生原因だが、教室の閉鎖空間のなかで、社会的秩序を構築しようとする子どもの集団では、こどもは本来、自我の確立のために社会秩序の破壊などを通して個我のアイデンティティを認識しようとする存在でもあるのに、教師という抑圧的存在によって、その我の自由領域を拡大させる欲望と対立し、葛藤し、勉強という結果によって乗り越えようとする。このことそのものが教育の作用のひとつであるが、この抑圧的存在を崩壊させることによってなしとげる自由と平等という名の悪魔の思惑にのってしまう勘違いが、逆に子どもの成長する自由を奪っていることに気づくべきである。

参院議員の存在意義

今、郵政民営化の法案が採決されている。そこで参院議員の存在について考えてみたい。昔は華族が担った階級制で議員が決まっていた。ここで提案したいのは、株式会社における最大ステークフォルダーは、もちろん株主であることは間違いない。ゆえに国家における株主は、多額の税金を支払っている納税者である。これを公平の観点から考えると、支払った分だけ国家にクレームをつける権利を有する、ともいえる。これこそが平等である。ゆえに高額納税者を公表するのではなく(来年度からは無いが)、議席を与えるべきではないだろうか。これには異論、反論もあるので、新たなる視点を加えて、止揚し、この視点を今後も、洗練していきたいと考える次第である。

時間が空間を内包している

◆空間の中に時間があるのではない。時間が常に空間を創っていく。
人は時間を意識したとき、そこに現実の空間が現れ、それが変転して形となりやがて時間が存在することを意識する。もし変転しなければ、時間が存在していることすら意識できない。Aという状態からBという状態に移行する過程や結果をみて人は時間概念を知る。
変化したものが同じものである証拠はどこにもないのに、それを同一なものと認識するときに現れる感覚が普遍的に存在しているものなのかもしれない

勝ち組とは何か

◆やさしい闘いに勝つよりも、厳しい闘いに負けることのほうが、強くなるときもある。逃げることはたやすい。挑むときにすでに闘いに勝っているのではないか。直前の勝ちや負けでないところで勝負する者は、長距離走ランナーのように、ゴールに近づくにつれて勝利の実感を味わうことになる。そして知らず知らずに自然に強くなっていく。勝つことにこだわっている者はすでに弱い部分をさらしているようなもの。真に勝つものは勝つことにこだわっていない。むしろその後のことを常に捉えている。次の展開を見ている。人生に勝ち負けはあるが、勝ち負けを求めるものはすでに負けている。負けていると思って努力したものはいつしか勝っていくことが多い。

理想と現実の境界線

夜明けの道 ◆現実を肯定し、妥協的になるのも間違い。現実を否定し、理想の中に浮遊・逃避・夢想するのも間違い。 すべては現実を理想の方向に一歩づつ変えていく事こそが本質。悲惨で苦しくて擦れている現実を悲観することではなく、また現実とは区別して理想だけが独立して現実を無視する態度とも違う。リアルな現実の中に絵画的な理想が共に握手をし、語り、渡り合うことが両者にとって良い関係であり、またそれが両者を否定せずに生かす道でもある。 理想現実の狭間で、どちらかを選択することに悩むのでなく、またどちらも選択しない虚無主義に走るのではなく、両者をアウフヘーベンすることこそが重要な概念でもあり、今世紀のエートスでもある。 リアルな現実を、あたらしい概念でアップデートしていきたいものである。

なぜ若者はキレるのか

◆愛情供給者の存在が、個人の精神的独立に不可欠の要素であることは否めない。個々人の精神成長における、個の確立エネルギーには、受給段階と供給段階に大別される。その受給段階における他者の存在を自己の存在とみなしえるためには、他者との関係性を認識する格闘の段階があり、その段階時に他者からの依存による認識獲得を超えて、自己内部で認識するエネルギー源泉の吸収方法確立する必要がある。この段階を経て、主体の成長者は、初めて個の精神的独立をなしえるのである。精神初期時での近隣での供給方法の学習により取得できるものである。
 その場合は、地上個体獲得時の直接的供給者である両親や祖父母である必要なく、しかしその第一主体であり、このことは他の存在より絶対的優位にあることは永遠に変わりえない、たとえ公的機関の第三者だとしても、愛情供給者の存在こそが、精神幼少時における最大の精神確立因子になりえる。つまり個人における精神的確立の因子としての愛情供給者の存在こそが大事であり、それはたとえ個体第一提供者である両親がいなくとも、確実に精神確立の達成をなしえている存在があることをみても明らかである。しかしこのことは、その環境的側面に依存するということを証明しているわけではなく、個人のなかにある隠れた愛情供給者の検索努力の結果とも別の側面から考察される。
 しかしながら、公の支援や、非営利組織の存在、または偶発的供給者の存在、信仰にもとずく本能の行為などに支えれて、精神確立を積極的に改善的に提供することも可能であり、このことは未定確立者への最大の支援となりうることが予見される。

 結局、若者の中に精神性の確立を支援しえる存在の認識主体と、精神性の確立を支援する供給者側の客体との相互行為による、供給段階への誘導こそが、精神成長期での精神主体の獲得と安定をなしえるものであり、このことこそがあやふやな認識で誤見される行為を抑止することができるのではないだろうか。