ネットで見かけたコメントで、
「スラム街や、孤児のような
酷く貧困な環境に生まれた人は
生きるためには殺人や窃盗をしなければ
いけないのが事実。」
との意味合いのものがありました。
そこで今回は、
生まれながらに
恵まれない環境に育った人が
犯す罪について、
神が許すのか?
ということを
テーマにお話します。
スラム街など、
非常に貧困で荒んだ環境に
生まれた場合、
宗教などで言われる、
「許しなさい」
「汝の敵を愛せよ」
「盗むなかれ。」
「上着を盗られたら
下着を差し出せ」
「右の頬を打たれたら
左の頬を出せ」
などという教えを
守っていたら
「とても生きていけない!」
という気持ちになったりもします。
口で言うのは簡単ですが、
実際に、
そうした生きるか死ぬか、
であったり、
戦争時のような、
殺るか、殺られるか、
といった
過酷な環境に生きている場合、
現実的には、
人を殺してしまうことや、
人の物を盗むことでしか
生きることができない状況も
あろうかと思います。
冒頭での、コメントの筆者は、
「そうした環境で
生きるために悪といわれる行為を、
せざるを得なかった場合でも、
地獄に堕ちてしまうというのは、
納得がいかない。」
との感想を述べていました。
私も、その感想を言いたくなる
気持ちはちょっとわかります。
同情的というよりは、
むしろ客観的に見て、
それは不公平ではないかと
疑問を持ってしまうところでしょう。
しかし、
この世の現象だけを見ると、
随分、不公平で可哀相だな
と感じますが、
実は、
人間というものは、この世に生まれる時に、
『どの両親のもとに生まれるか』
『どの環境に生まれ落ちるか』
という最低限の、
環境設定というものは
本人が了承済で生まれてきます。
このブログでも
何度もお伝えしていますが、
人間は、
『個人の魂を、神に近づけていく為の修行』
と、
『世界の繁栄発展に貢献する』
という、
2本柱のテーマを推進させるために
転生輪廻を繰り返しています。
ですから、
生まれながらに、
そのような厳しい環境に
生まれ落ちることは
けして偶然もなく、
運が悪かったわけでもありません。
他ならぬ、
本人が承諾の上で
そこに生まれているわけです。
なぜ、
わざわざこんな厳しい環境に
生まれようとするのか?
というと、
1つは、それだけ
「魂の足腰を鍛えたい!」
「魂を強くしたい!」
という、
向上心の表れです。
もう1つは、
今までは恵まれた環境ばかりに
生まれてきたので、
今回は、スラム街という、
今まで経験したことのない
貧困と危険の伴う環境で
生まれて修行してみよう
という実験の意味。
この場合、
まさしく、荒んだ環境においても
人に愛することができるか?
という人生の問題を
真っ向からチャレンジするということで、
『人に悪意や恨みをもって生きなかった』
というだけで
及第点をとれることになっています。
さらに、
今までは王侯貴族や富豪に
生まれることが多かったため、
貧困層の気持ちを理解する意味で、
指導霊的な存在の霊から、
カリキュラムを組んでもらい、
本人も納得して
意を決して生まれてくる
というケースもあります。
また、
今挙げたケースとは別に、
「とにかくこの世に生まれたい!」
「早く転生したい!」
という人が、
とりあえず生まれ落ちる場所として
『空きの多い』?厳しい環境の下に
何も計画も立てずに
親だけ確認して
生まれてきてしまうケースも
あります。
このケースの場合に限っては、
親子の契りもせずに、
勝手に生まれてくるわけで、
このような場合は、
波長導通の法則で、
あまり物事を深く考えない親のもとに、
同系統の何も考えないタイプの魂が
子として生まれることで、
可能となります。
そういうタイプの人は、
生まれた後
どれだけ苦労するか、などは
考えられず、
「生まれちまえば何とかなる!」
という、
感覚と勢いで
行くようなタイプですね(笑)。
以上のように、
貧民街、スラム街に生まれてくる魂には、
何かしら必ず理由があって
そこに生まれてくるわけです。
本人が本意ではないのに、
偶然、そうした厳しい環境に
生まれさせられたわけではありません。
やみくもに同情する前に、
まず、
そこを踏まえておくことです。
もう1つの観点としては、
これは一般の方には
難しい考え方かもしれませんが、
『盗みや殺人をしなければ生きられない』
のであれば、
それこそ、キリスト教の愛の教えの通り、
またはモーゼの十戒の通り、
盗むなかれ、殺すなかれ
を実践していると、
不思議と神様からのご加護が
必ず出てくるのです。
運がめぐりめぐって
奇跡のように
助けられていきます。
これこそ、
「信じる心」
に尽きます。
仮に何も助けもなく、
飢え死にするのであれば、
それもまた
『神の思し召し』
と思って、
粛々と受け入れると良いと思います。
仏教においても、
『生』にしがみつくことは、
執着であり、煩悩であり、
それこそ『苦』の原因なのですから。
自殺や自暴自棄はけして薦めませんが、
人間、
『悪いことをしてまで生きること』
はやはり、地獄への道なのです。
聖書にも書いてあるように、
人間は
『パンのみのために生きるにあらず』
です。
冒頭のコメントの方は、
「スラム街に生まれたら、
生きるために悪を犯さないといけないから、
生まれながらに地獄行きが
決まっているようなもの」
との意見を述べていましたが、
『なんとしても生き延びること』が正義とは限りません。
古くは、
聖徳太子の子孫である、山背大兄王が
蘇我入鹿に権力闘争で追われた際、
再起して一戦交えれば勝てる可能性が
あったにも関わらず、
『戦争による悲劇を生むことを嫌い、
一族全員で自殺をして、
ことを治めた』
ということも
ありました。
世界四大聖人の一人、
ソクラテスはいわれのない罪を着せられ
捕まり、死刑を宣告されます。
牢獄には、彼の弟子が入り込んでいて
ソクラテスをこっそり逃がすことができました。
しかし、ソクラテスは
この世のルールは守らなければいけない
ということで、
自ら毒杯を飲んで
死んでいきました。
同様にイエス・キリストもそうです。
捕まることがわかっていて、
逃げることもできましたし、
抵抗することもできました。
しかし、
あえて無抵抗で
捕まり、磔になったわけです。
この世の現象だけを見たら、
正しい人が悪に負ける
ように見えますが、
その実、
死後のあの世で
いくら時の権力者によって
自殺することになったり、
殺されるハメになっても、
地獄に行くことはありません。
むしろ天国で
その生き様が
永遠に光り輝いていることでしょう。
それこそ
イエス・キリストの
『我、世に勝てり』
です。
ですから、
環境が悪い中、生まれ育ったとしても、
悪事を犯さないと生きていてない、
または、
悪事を犯してまで生きるのは仕方ない、
という考えは、
あの世の観点を踏まえたら
正しくはありません。
少し厳しいようですが、
スラム街などに
生まれるということは、
本人がより
魂を屈強にするために
チャレンジしている
ということです。
筋トレでいえば、
よりハードなジムに通って、
ハードなトレーニングを
自ら行っている
という状態です。
けして不運なことでも、
不公平なことでもありません。
もちろん、スラム街や、
様々な国の恵まれない環境について、
全世界が
その改善と協力に
取り組むべきですし、
そのような環境下での
犯罪をなくすことを目指す努力も
また修行であり、義務課題です。
ですが、
やはり、
どのような環境であろうと、
『悪』は許されません。
神様は
『悪いことしてでも生きなさい』
とは言っていないのです。
むしろ
『死ぬことになっても悪を犯さないでいられるか?』
を試されている修行だと
思って良いでしょう。

