物事は1、2、3、4、から始まる。

言葉はあ、い、う、え、お、から始まる。

あが凝縮してたまっているのが頭です。

頭というのは無限の広がりを持つ。

物事が次から次へと生まれる。

一から始めるのはどういうことですかといったとき。

一とは今いる場所なんです。

今自分がいる場所から始めなければいけない。

人間というのは本来幸せになるようにできている。

自分が今まで歩いてきた道というのがある。

その人が向いたところから成功への道に行ける。

正しい方向に向いて、成功の道に歩き出していくとどういう結果が起きるかというと。

自分を高めてくれる試練、その困難を乗り越えるとご褒美がもらえる。

報酬がもらえる。

だから困難はどこに行ってもある。

ところが成功じゃない方向に行った場合は困難が出てくる。

それを乗り越えるとどうなるかというと報いがくる。

報酬のほうも報いも同じ字なんです。

だけどもえらい違いなんです。

なんでも間違った道も苦労なんです。

そこで苦労を乗り越えたら幸せになるということはないんです。

間違った道で乗り越えると、この道は間違ってますよという、教えるために出てきた困難だから。

これを乗り越えたらもっと困難が来るんです。

だから、努力しても努力しても結果が報われない人は必ず成功でない道を行っている。

成功の道に出てきたことは一つ乗り越えればご褒美がもらえる。

また一つ乗り越えれば、また一つご褒美がもらえる。

一つの例の話をします。

旦那が暴力を振ってどうしよもないと、あんまりひどいんで駆け込み寺まで行って。

駆け込み寺まで行ったならば、そこで初めてお経を聞いた。

そのお経のすばらしさに自分がすごく感銘した時に。

こんな素晴らしい体験をさせてくれたのは旦那さんなんだ。

だから私は旦那のもとに帰るといった人がいた。

ダメです。

暴力を振るのはおかしいです。

分かりますか。

お経はお経で聞けばいいんです。

帰ったらろくな事はないんです。

もっとひどい目に合うだけなんです。

分かりますか。

常識外れの人と付き合っていたらダメなんです。

いつかこの人が立ち直ったら、そんなことに構ったらいけないんです。

仕事でも何でも自分はどんなに努力してもどうしても上手くいかない。

上手くいかなかったら自分は違っているんじゃないか。

その間違っていることをずっと押し通しているのは我なんです。

見る目がなかった。

お知らせが出ているのに見る目がなかった。

よく見ていない。

自分の我が強い。

そんなことなりっこない。

冷静さを掻いている。

もしかしたら、自分は間違っているんじゃないか。

成功の道を歩きながらも、常に自分に出てきた困難を乗り越えたときは報酬。

神様からのご褒美、幸せ感、本当によかったな。

これをいただいていますか。

乗り越えるたびに、ご褒美じゃなくて報いが来ているんだ。

そのことをわからないで、ずっと行けば行くほど大変なんです。

成功から遠ざかっちゃう。

幸せからも遠ざかっちゃう。

自分の道でないの。

勝手に変な解釈をしているの。

駆け込み寺に行くほど殴られているのに、この人のおかげでお経を聞けたと思うのはこじつけです。

それってそうだねと言う人もいるかもしれません。

でも私は言いません。

あなたの今を見てください。

あなたには困難が襲ってきませんか。

とんでもないことが起きませんか。

そういうことをしていると、本当に泥棒にも合うし強盗にも合う、殺されてしまう。

そっちじゃないです。

行く道が違うんです。

自分の今いる位置から成功のことを考えましょう。

経済の事もそうです。

今から経済の事を考えれば、正しい道というのは分かるんです。

自分は新規の客を取らなければいけない。

それもどうせやるなら勢いをつけてやらなければいけない。

仕事はうまくいきだすんです。

成功する人も上手くいかない人も大した違いはないんです。

ニコニコしてやっているか勢いよくやっているか。

いやいややっているか。

それで違うんです。

成功の道には神様からのご褒美があるんです。

失敗の道に行かしたくないから、そっちじゃないそっちじゃないと困難が出るんです。

困難は乗り越えても報いは来ることはあっても、報酬は来ないんです。