「しにたい」気持ち仮説。

多分ほとんどの人が口に出さないだけで、
「しにたい」気持ちはレベルの違いはあれ全員持っているんじゃないでしょうか。笑

しかも、強烈につらいことがあった「から」というだけでなく、
もう、存在自体に対する、慢性的で永続的な、特定できない何か。

自己自身がそのまま悩みの原因。

それが、仕事や社会や環境であるとか外面的な理由を使って、
次々と現れてくる。

失業や失恋や死別や裏切りは、
「しにたい」の原因ではなく、
もともとあった自己と共にあった絶望が表面化しただけなのです。

仮に、彼が、
仕事で成功し有名になり億万長者になり友人を多く得ても、
その「しにたい」は休まることを知らないでしょう。

「しにたい」というと、
「これはちょっとおかしくなってる」「異常だ」
「どうしたの😱
話聞くよ」
「病院行ったら」
となりますが、

お釈迦さまによると、
そっちの方が「正常」なんですって🤣

人間は「しにたい」のが普通でデフォルトで、
要するにみんな、そんなことないフリをして生きる術を身につけてしまっただけなのです。

仕事や目の前のことや成功に向けて夢中になったり、
趣味をしたり、
飲み食いしたり、
運動をしたりして、
意識に出てこないように気を紛らわす。

そういうことを知るだけで、
かなり肩の荷が軽くなりますね。

その気持ちを持ったり、表現したり、他人に語ることを思うと、
「罪悪感」とか「恥」を感じ、
抑えつけようとする。

1点目が、
「それは思い込みだから、明るいことに意識を向けてそれを打ち消そう」
というベクトル。
→いくら意を決して何十年続けても、また元通りになる、ばかりか、
よりそれは大きな声で「復讐」をはかろうとする。

2点目が、
受け入れたはいいが、どっぷり浸かってしまい、明るいことに目が向けられなくなり、
そこが居心地がいいので、出られなくなってしまう。
出ることに恐れを感じる。

3点目が、
「社会的にタブー」というもの。
「それは関係がない」というもの。
「語るべきではない」という圧力。

「出口なし」なんです😱

そして、おそらく皆が「絶望」しているにも関わらず、
「共感」され得ない。
人類が有志以来抱えている普遍的問題であるにも関わらず、
語りうることが許されない。

もしくは、
ジャッジされうるし、
「生きたくても生きられない人がいるのに」とか、
「命は大事」とか、
そうじゃない、そうじゃない」と、
「励まされよう」とされる。

そして、その励ましを拒絶すると、
周りから揃いも揃って、
「せっかくの親切をなぜ受け入れられないのか、
そんなんだから、いけない」
と残念そうに距離を取られ、
「孤独や苦悩は自業自得」となるわけです。

「死に至る病」であるにも関わらず、
認知もされないし、
取り扱いの仕方がわからない。

「わからない」
「難しい」
「違う」
の一言で切り捨てられ、受容されることがない。

誰も人間には解決し得ない、
という予感、
そして、「話しても無駄だ」という絶望感。

かといって、
自己を確立し、全き孤独のうちに、神や真理に一対一で向き合い、苦悩を昇華していくには、
それは常に誘惑と狭き門が立ち塞がっている。

「しにたい」欲求と、
「幸せに自由に自分らしく生きたい」欲求は表裏一体。

つまり、彼のうちには、膨大な生命エネルギーが存在しているわけですが、
その昇華先が見当たらず、
ことごとく「禁止」の命令を出され、
「拒絶」され、
行き場所を失ってしまったそれは、うちに向かい、自らを傷つけたり、呼吸をさせなくさせ、圧迫し続けて、病気を作り出します。

私たちのうちには、
三つのエネルギーがあるような気がします。
①本能:気持ちいい、快や不快、甘え、泣く

②社会性:周りからどう評価されるか、自分のポジションがどこか。成績年収名声など。

③スピリット:精神性。愛や感謝や平和や創造性。

①②③を全て満たせたら幸せな成功者と呼べるかもしれません。
が、私たちは、すべてを満たそうとしながら、
結局程遠い自己の現実に落胆します。

特に私たちの現代社会では、
②の社会性が、ほとんど相互監視状態になり、「正しい」ことは恐ろしく仔細にわたり、おまけに多様性の名の下で相互に矛盾し、「何もかもが正しくない」ことになってしまい、批判されうることであり、
私たちの内面に入り込み、ありとあらゆることが異常になってしまい、①本能のままに生きることを悪とみなし、社会から排斥されることを恐れ、「恥」の観念を抱かせます。

②がほとんど、生きる上でとても強力で、生きていくのに不可欠な、
そしてそれこそが価値というような物差しです。
「なりたいこと」「やりたいこと」は①③をさしおいて、②になってくる。
頭でわかっていても、本能は違うと叫びながらも、
②に従わないことは、とても恐ろしい「人間失格」であるという烙印が脳裏に刷り込まれている。
しかし、①③が叫び声を上げて、病気や症状を作り出す。

しかし、成功者と呼ばれる人は、逆説的ですが、皆、①と③を充実させながら、②を満たし続けている。
つまり、「拒絶」を退け、自らを信じた。

彼らは②を「突破」することに成功したのです。

もし私たちが、②を主導ではなく、
①③に正直に生きて表現していくことができたら、病気はなくなるでしょう。
ですが、エゴは、②こそが原因で、②さえよくなれば、と思い、そこに煩い始める。

他方、
①③が「わからない」という人は多い。
何が気持ちよくて何が不快で、というのがわからない、
というか、感じようとすると、心の中に埋め込まれた何かが作動し、息が詰まり吐き気を催し、世界と壁ができてしまう。
①を取り戻すために、
彼は酒や薬物に走るか、
あるいはエクササイズや知識や刺激でそれを満たそうとするが、
そのあいだじゅうもずっと、「しにたい」という声は絶えず心の中で鳴り響く。
外部に解決を求めるが、
「オプション」は増えていきますし、
役に立つことは増え、
進化や成長はできます。
「私」は根本的に「しにたい」を抱えている。

また、③を求めるあまり、①を抑えつけ、いけないものとして扱うと、
これはまた、私たちにサインを送ってくるわけです。

ますます、矛盾は膨らむばかりで、
それは彼にとって、「責め」にすらなります。

「諦める」か、
「反抗する」かという実として表れはじめます。

幼児とか子どもって「しにたい」欲求はない、、、
と言おうとしましたが、
お腹の中から、両親が喧嘩ばっかりして、
赤ちゃんにはわからないと思って、怒鳴ってばかりいたら、
言葉にではできないけれども、
子どもって身体とか性格に無意識に出る。

2歳までの愛着形成で愛着スタイルは決まっちゃうそうなので、
親がなんか抱えてると、
もう5歳ぐらいには、
達観して、
「どうせ死んでしまうのだから全ては虚しい」
と直感して、泣き喚くが、
誰もそれを理解できない。

となると、
やっぱり「しにたい」は、
ハードに初期設定された取り外しがめっちゃ難しいソフトウェアみたいなものなのかもしれません。

「しにたい」
の本質というのは、
つまり、
①が②や③と結びつかない形で、「拒絶」「否定」「無視」され続けており、
また、その「拒絶」「否定」「無視」がこれまでの経験上不可能であったから、
これからも永遠に満たされないであろうし、解放されないであろうという見込み。
しかし、徹底的に諦め切ることができず、
「どこかに希望がチラチラと見える」
にもかかわらず、
自分だけはそれを手にする能力がないし、これからも持てないであろう、
というぼんやりとした観念。

さて、
この問題に対する、
おそらく有効な手段としては、
「共感的に聴く」
かつ、
「依存の関係にならない」
で率直に伴走できる人のいる場を持つことではないかと思われます。

かつ、
「安心して、恐れや拒絶のプログラムを書き換えていける」
ということは条件ではないかと思います。

さらに言えば、

クッソ自由すぎる空間‼️✨

つまり、
「ああ、私、自分を表現してわかってもらえる、受け入れてもらえる」
「人の役に立てている」
「自由に生きていいんだ」
と実感できる場はめっちゃ大切ということです。

多少羽目を外しても、違っていても、自由にしていても、
人を傷つけなければOKだし、
むしろ、そんな自分が好きで、
そんなあなただからこそ、魅力的で、
みたいな、
いやいや、お前の個性そんなんでいいの、もっととんがれよ、
みたいなので全然いい、という。

超自由で、
超楽で、
超楽しくて、
超愛しかなくて、

というそういう生き方をする。

もう一度。

何ものにもとらわれず
クッソ自由で、気持ちいい空間。