「胸を痛める」「ああ、かわいそうに」という感覚。
英語で言うと、pity?mercy?

あわれむ、
とか
慈しむ
という言葉でも言えそうだけど、
あの、胸がキュンとなって、
「辛かったね」「よくここまで生きてきたね」
「私はあなたに気がついたよ」
「そばにいるよ」
というような
「ここで手を差し伸べずにはいられない」
「助けられないではいられない」
という感覚。

それによって、
自分の中の、眠っていた、「あたたかい心」「優しい心」が目を覚ます。

「そこにこそ本当に人間が人間らしく生きる原点があったんだ」
という人間の心の根っこにあるもの。

だいたい、号泣を呼ぶドラマとか講演会では、
この「胸を痛める」ストーリーです。

•いじめられて、学校はわかってくれず、割腹自殺を図ったが、一命を取り留めるも、
医者や家族や社会や不良仲間もわかってくれない。
自暴自棄になり、ヤクザの世界に入っていたところ、
叔父さんに出会い、繰り返し心を込めて説得され、真剣に叱られ、
そこでもう一度人生のやり直しを覚悟して中卒から弁護士になった人の話。

•親や学校や社会にも見捨てられ夜の街以外いくところがなくなり、
罪を犯しもうダメだと絶望しているところに、
「今までのことは全部いいんだよこれからのことを一緒に考えよう」
と声をかけて回る高校教師の話。

•親に捨てられ、学校からも大人からも見捨てられヤンキーになったが、
送られた先の学校で、教師たちが本気で接してくれたことをきっかけに、
自分も教師になろうと決意して現場に戻ってくる。

•両親に捨てられ、いく場所がなくなって鬱になった高校生の青年を自宅に受け入れ、
自死未遂や深夜徘徊を忍耐を持って、愛を投げかけ、抱きしめ、、、
本当の家族になっていく話。

さて、基本的に、
どん底から這い上がるきっかけとなった支援者が、
「人を助ける」ということはまずないように思われます。

彼らは、「自分が自分で前に進んでいく」のをサポートし環境を整えたにすぎない。

ポイントは、
真剣に関心を持つ、
本気で関わる、
信じ抜く、
ということだろうと思います。

つまり、
必要なことは、
受け入れ、安心させる、
でも手を出さない、
求められた時以外アドバイスをしない。
でも本気で応援する。

単なる傾聴だけでなく、時にはガツンと全否定することもある。

日本では定期的に、
ずっと表面下で地道に活動をしていたが、
ある時表舞台に出るや否や、カリスマ的人気になる人が現れます。

見捨てられた体験、気がついてもらえなかった体験、愛されなかった体験があるので、
「この人に自分の存在を知ってほしい」
欲求。

「私はここにいていいんだ」と実感したい欲求。

「気がついてほしい」
「見てほしい」
「助けてほしい」
「寂しい」
みたいな。

その声を受け止められる場所が、現代社会には圧倒的になく、
多くの人が、効率や利害関係やそうしたことを第一優先で、
「心の声を聞く」ことができなくなっている。

人格はなく、噂と評論か、計算や理性、
もしくは内向きで受け止める術のない呻きのみが蔓延している。

あまりにも多くのことが、
愛や心というものを踏み躙り、
気付かないように気付かないように、
無視して、押さえつけて、
そして、
生きるとはそういうことになっている。

もう、戻り方がわからなくなってしまった。

それを絶望というのです。

それに、気が付かないで無視し続けるか、
気がついても誤魔化すか、
はっきり気がついた結果、救いのないことを自覚し、グレて生きるか。

私たちが本当に求めているのは、
存在を受け止め、
かつ自由になれる
支えのある場所なのでしょう。

もし、人がちゃんとそういう場所で
自分を受け入れ、人を受け入れ、
とやっていけば、
いずれ、回復していくだろうと。

他方、ちゃんと幼少期からこのmercyをちゃんと受けて育ってきた人は、
いずれ大人になると、
他の人たちにmercyを注ぐ側になる。

さて、
私たちは、自分自身のこの「胸を痛める」声を聞くことができているでしょうか。




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