先日の、マインド塾での後半のテーマが、

 

「未来を信じること」=信仰を持つこと

 

でした。

 

 

私自身は、クリスチャンなので、受け入れやすい内容でしたが、

おそらく、そうでない人にとっても受け入れやすい内容だったと思います。

 

 

信仰とは、

希望することが実現すると確信することです。

 

そして、

神さまに向かって私たちが語り掛ける時、

それは同時に、自分自身が神の子であり、それゆえ私たちの内部に神がいることを前提としています。

 

 

聖書では、人間は神の似姿としてつくられたとされていますし、

神道でも、人間はアメノミナカヌシという宇宙大霊の分け御霊をいただいているのだと言います。

仏教でも、宇宙の根本である大日如来と、人間はその本質が同じであると言います。

 

 

つまり、あらゆる宗教が言うことは、

私たちは皆神の子であり、小さな神であるのだということです。

 

 

そして、私たちが、それを視覚化して、ありありとそれが叶ったと信じるならば、

それは必ず実現するようにできています。

 

私たちの内なる神は、宇宙全体にあるあらゆるものを統御する力に繋がっています。

 

 

信仰においては、

「持つ」ことよりも、「在る」ことが重要です。

 

 

神の力は、電気のようなもので、

見ることはできませんが、それが「ある」ことは理解できます。

 

 

 

 

 

 

見えない世界の力とその活用法が知られるようになったことはいいことですが、

少し、私が懸念していることは、

引き寄せの法則でも宗教でもなんでも、その活用方法を誤ると、「ダークサイド」があるということです。

 

 

 

例えば・・・

 

「私が神だ」(だけど、他人は神じゃない。)

 

神を、自動販売機やランプの精のように、願えば何でも叶えてくれる「だけの」存在とみなしてしまう。

 

自分だけの身勝手な欲望を叶えるためにメソッドを使う。

 

自分の「本当の願い」ではなく、単なる物質的達成のみを引き寄せようと画策。

 

敬虔、畏敬の念を持たない神秘思想。

 

見えない世界を使って人をコントロールしたり、欲望の道具に使うケース。

 

理論のために人間がおざなりになってしまうこと。

 

救われた「気分」にはなるが、変わらず、高揚感を味わいたいために何度も高額なセミナーに通う。

 

極端な個人主義、社会に対する視点の喪失や、弱者に寄り添うことをしない。

 

 

 

 

 

 

人生の目的は、愛であり、安らぎであり、大いなるものとの人格的な出会いです。

 

限りなく慈しみ深い親と、子の親しく生き生きとした関係。

 

 

 

 

「ドラえもん」が登場せず、

人格を持たない「四次元ポケット」とそこから出てくる無数の秘密道具だけが、のび太の部屋に存在するそんな漫画

を考えると何とも味気ないというか、とても殺風景な作品になると思うのは、私だけでしょうか。

 

困っている人や泣いている人のところに、無人販売機があって、

そこでアンパンを買って腹だけ満たしてくれ、

という『アンパンマン』は喋るアンパンの顔を食べるよりよっぽど非人間的です。

 

 

ともかく、

 

神様を、僕たちの欲望を満たしてくれる「単なる宇宙の裏方の超高性能の便利なエネルギー」と考えるのは違います。

 

 

 

 

やっぱり、根本的には愛なんです。

 

具体的な人なんです。

 

 

 

イエス・キリストのことを

「痛みも苦しみも感じない、常に喜びしかなかった超越存在だった」と捉えるのも、

「神でも救世主でもない、単なる人間だった。」と捉えるのも、

ストライクゾーンからずれます。

 

 

神様は、人類みんなのことをもれなく救いたかったんですよね。

 

それで、上から目線で真理を説教するのではなく、痛みも感情もある完全な人間となって、一番つらいところまで降りていって寄り添った。

 

 

当然神様だから、「スピリチュアルパワー」も発揮して、多くの奇跡を起こしたけれども、

やっぱり、人間にとって一番の幸せは愛に他ならないということ。

 

 

神様は、寄り添いたかったんだ。

 

 

引き寄せの法則や、富を生み出して望む現実を作り出していくこと。

 

これは、たしかにあるし、大いに望むべきことだろうけれども、

最高の幸せは、つまるところ愛に行き着く。

 

「士は己を知る者のために死す」というけれども、

「私のことをちゃんとわかってくれて命まで差し出してくれる神様」

だからこそ、尊い。

 

受難や苦労そのものは決して礼賛されるべきではないですし、ないことが理想です。

 

「俺、神!地上デビューして、いっちょみんな幸せにしたるわい!」

って、やるよりも、

「命のすべてを投げ出してすべてを受け止める」

という愛を示したんですね。

 

 

 

 

 

 

イエスは、言いました。

 

 

「神の国と神の正義をこそ第一に求めなさい、

そうすれば、必要なものはすべて与えられる。」

 

 

神の国と神の正義とは、

 

独りよがりの成功ではなくて、

みんなが、幸せに生きていける世界、

だれもが神様から愛されている存在として大切にされるということ。

 

 

一番の幸せは愛です。

そして、神を知り、神の愛のうちで生きることです。

 

 

その実現のための手段として、あとで、富や着るものやらなんやらは不思議とついてくるものです。

 

 

神様に何かしてもらおうというよりも、

神様の手伝いをするんだっていう気持ちじゃないとダメです。

 

人を幸せにする、

人の心を神に向けさせる、

困っている神の子を助けてあげること、

苦しんでいる人に寄り添うこと、

 

神様のお役に立ちますっていう人には、ちゃんと「がんばってくれよ」というお礼として

ポジションやら、お金やら、必要な人材やらが後からついてくる。

 

 

社会の現状がどうであれ、

愛をもって

神様の国をつくろう、

神さまのお役に立つんだ、

人や社会を幸せにするんだ

っていう覚悟を持ってやってる人は絶対困ることはないですよ。