【お久しぶりの春季慰霊大法要@横網町公園】

今年の3/10は当時同様、寒さの厳しい朝に。



風も強かったキョロキョロ



1945年3/9夜半から翌3/10の未明にかけての、東京大空襲から79年目の朝。

東京大空襲で被害が大きく、またその前の関東大震災で多数の犠牲者を出した、旧被服廠(ひふくしょう)跡地にある横網町公園では、3/10(東京大空襲)と9/1(関東大震災)に、法要が行われています。

今の仕事は、3月が繁忙期なので、平日休みが難しく、今年は日曜日にあたっていましたので、久しぶりに足を運びました。

X(旧Twitter)では、混雑を回避して、毎年9日に来ているといったポストも見かけましたが、わかばは、せっかくなら法要当日にしています。

というのも、3/10と9/1。

年に2回だけ、東京都慰霊堂の横にある「東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑」では、碑の手前にある池の水を抜いて、中にある東京大空襲の犠牲者名簿をガラス越しに見ることが出来るのです。



「うちは、第○巻」「うちは○○(当時の町名)」など、小耳に挟む言葉は、我が家と同じ。



わかば母が、小学校一年生で東京大空襲から奇跡の生還。一緒に逃げた祖母と、身重の叔母の計3人+お腹の赤ちゃんは、総武線の高架の土手で夜明かししたと聞いています。

一方、当時の防空義務(空襲が来たら逃げずに消化しないと罰則)を守った祖父と叔父が行方不明者となりました。

その祖父と叔父の名は、犠牲者名簿の15巻に納められていますので、15巻の前で、手を合わせて来ました。



折からの強風と寒さです。

慰霊堂に入れるのはまだまだ時間がかかるとのことで、今回は見送る事に。

(わかばは仏教徒ではないので、お焼香にあまり興味がないキョロキョロ


東京大空襲は、一夜にして10万人の命と一万戸の住宅が失われたといわれています(数は諸説あり)。




復興記念館も、今回初めて足を踏み入れてみました。まあ、こちらは関東大震災がメインの展示でした。

せっかく久しぶりの下町エリア、都営バスで移動し、母が当時住んでいた亀戸エリアの船橋屋本店で、くず餅いただくことに。
(都02 石原一丁目から太平三丁目)

バスを降りたら、オリナス前。



この錦糸町駅近くの商業施設であるオリナスは、空襲当時は、精工舎の工場(鉄筋コンクリート?)。母達は、避難していた総武線の高架土手から、精工舎が燃えているのが見えたと言っていました。

時計塔のある精工舎の建物は、現在のスカイツリーのように、近隣から目立つ存在だったのでしょう。

当時、ほかはほとんど木造造りで、一帯はほぼ全焼。

80年間の復興。
文字にすると、軽いですが、母の一家のその後は、なかなかに聞くのも辛いストーリーです。

そして365日、常に誰かの嬉しい記念日であり、つらいメモリアルな日です。

全てのメモリアルな日に、同じように心を寄せることはないけれど、わかばにとっての3/10は、夜が明けた事に感謝する日。

防災記念日として、防災用品のチェックをする日。

自分の中にある、言葉にならない想いを解放してあげる日。

そして、そうすることで、他の方の辛いメモリアルな日には、少なくともレスペクトが出来ると思うのです。

例えば、死者1万人と聞いた時に、そのお一人お一人に、それぞれの人生や大切な家族があったことに思いを馳せる事は出来る。



船橋屋本店。

コロナ禍以降、初めてのイートイン。
藤や梅の季節ではないので、思いのほかすぐ入れました。



船橋屋さんの本店には、昭和初期のお店の写真が飾られています。

その写真を拝見しながら、母達の空襲までの暮らし、そして、空襲後の疎開、戦後の暮らしに思いを馳せるひととき。



BGMは、バッハのマタイ受難曲が気分。




自然災害であっても、事故や病気であっても、その悲しみが変わる物ではないけれど、ただ、戦争による死は、やはりちょっと質が違う。

こんな悲しい花は、もうここだけでいい。



A pray for peace.



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