解るよ。「僕は、今、ここにいる」。 | 雨のあとのにおい

解るよ。「僕は、今、ここにいる」。

その地下道は狭いし暗いし,とても入り組んでいてすぐに迷ってしまう.

出口は海出口と山出口があって,それらを探り当てるのだけでも時間がかかる.


それでも今日もぼくは地下道をうろついていた.

少し湿ったような,黴臭いその道はどうしてだか心を落ち着かせる.

地上では赤黄色の金木犀がその強い匂いを空気に溶かしているけれど,

ここには季節の匂いがない.


だれかがギターを弾いている.

静かなアルペジオが耳をくすぐり,心地よい気分になって足取りも軽くなる.

天井から水滴が滴り落ちて,見上げると岩の隙間に青い光.

じっと見つめるとそれは時々瞬いて,何かのサインを送っているかのようだった.

静かに腰を下ろしてカバンからパンを取り出す.

気に入りの店で買ってきたフレンチトーストは程よい甘さで,なんだか幸せな気分になる.

そういえば,このパンを焼いているあのひとはとてもきれいな眼をしていたっけ.

パンを手渡してくれたその手が毎日の仕事のせいかとても荒れていて,

それを見てとても愛おしくなったのを覚えている.


再び青い光を見つめてみる.

あの人の瞳の色もこんなだったかな.

光はゆっくりと瞬きをしては静かに輝いている.

空の色とも海の色ともいえないその青さは心の深みまで達するようだ.


腰を上げて,また地下道を歩く.

果てしなくひとりぼっちだ,

そんなことを実感してはいとしい人たちの顔が浮かんでは消えていく.

感受するすべてがなにかのしるしのように思えて,

あるときはざわざわ,またあるときは安心の水のそこに沈むように.


さて,今日はどちらの出口から出ようか.

でも,それを決めたところで出口は簡単には見つからない.

諦めにも似たやさしさを抱えてぼくはいまここにいる.

誰にも見えない地下の奥底で,誰にも知られることなく.