崇い未来への礼に | 雨のあとのにおい

崇い未来への礼に

好きな人ができた.そう,とうとう出会ってしまったのだ.

ああでもない,こうでもないと今まで目移りしていたけれど,

もしかすると彼女が運命の人かもしれない.

二人の間には片道2時間の距離があるが,今すぐにでも駆けつけたいほどに焦がれている.

といっても,会えたところで僕は仄暗い部屋に佇む彼女をじっと見つめることしかできないのだけれど・・・.

 

奈良の平城京跡,その北西の市街地に秋篠寺はある.

秋篠寺は美しい苔の庭でも名が知られており,

ビロードや絨毯と見まごうその苔の滑らかさは見ていて飽きることがない.

別世界に迷い込んだ気分になって受付を済ませると,

ドンと目の前に現れるのが国宝の本堂.奈良時代の建築様式であり,

安定感に満ちた美しさがある.

そして恋慕のお相手はその本堂の中にいて,名前を伎芸天という.仏像だ.



伎芸天は大自在天というインドの神様の髪の生え際から生まれた天女で,

芸能,芸術を守護するとされる.国内では,この一体しか残っていないのだという.

私はその姿に向かい合ったとき,とても懐かしいような感覚を覚え,

その包容力にその場を離れられなくなった.

細やかな指先や少しだけひねられた腰の妖艶さに頭がぼんやりする.

そして,静かに目線を落とし,優しい微笑をたたえた表情は私をすべて肯定してくれるかのようで,

少しだけ泣きたい気持ちになった.

そんなのは初めてだった.


以来,片時も頭から離れないでいる.奈良が.秋篠寺が.伎芸天が.あなたのことが.



雨のあとのにおい