天上絵師KAWAZO旧ブログ -103ページ目

映画「アマデウス」

こんにちは。KAWAZOです。

最近、いろいろなシチュエーションで、この映画を連想するのです。
なんでかわからないけど。
なので、レビューをこちらへ移植します。

非常に長文ですので、興味のない方は遠慮無くスルーでどうぞ。



アマデウス [DVD]/F・マーレイ・エイブラハム,トム・ハルス,エリザベス・ベリッジ

¥1,500
Amazon.co.jp

★★★★★

前に書いたレビューの移植--------------

レビュータイトル「神とはなんと無慈悲な存在か」



おそらく、一番何度も繰り返し鑑賞した作品。
何度映画館へ足を運んだことか。
そして、DVDでも何度見たか。

まず最初に、私は史実がどうであったかには大して興味はない。
以上を踏まえて。

モーツアルトとサリエリの確執、ではないと思う。
これは、サリエリの、一方的で骨の髄まで蝕まれた、狂気と紙一重の愛の物語。
彼が愛して、それ故に憎んだ、モーツアルト=神。


聞き手である神父の表情が良い。
どことなく「得意げに」告白を勧める神父は、若くて善良で、神の道に生きる自分に迷いなく見えた。
あの「告白」を聞いて、果たして彼は今まで通りに神に仕えることができるのだろうか。
石灰が舞い上がる共同墓穴のシーンから切り替わった時の、うなだれ打ちひしがれた神父の姿が印象に残る。
対照的に、サリエリはむしろ晴れやかでさえある。
あれもまた、永遠に神に仕える者の姿ではないだろうか。

物語の終盤、モーツアルトの口伝えに譜面を書くサリエリの姿が、それまでのどの彼よりも充実して見えた。
あの作業の中で、彼はモーツアルトの真の楽才に触れることができ、神の調べをこの世の人間に理解できる形に変換する仕事に携わることができた。
書け、できたのか?見せろ。 若造にタメ口で命令されても、もはやそんなことはどうでもいい。
あの時、モーツアルト=神は、確かにサリエリと共にあった。
そんなサリエリから譜面を奪い去ってしまったコンスタンツェを、一瞬殺したくなった。
このクソ女は、なぜ今この時に舞い戻ってきたりしたのか…と。
譜面を取り上げられた時のサリエリの狼狽は、「この譜面を自分のものとして栄光を掴む、という計画がダメになった」ことよりも、「私と神の共同作品を奪われた」という思いの方が強かったに違いない。
ましてや、ヴォルフガングに懺悔されてしまった後では。
あの純真無垢としかいいようのない「恥ずかしい。赦してください」の言葉の後では。
あの時、もうサリエリはヴォルフガングを殺したいとは思っていなかったのではないだろうか。
なのに、まるで絞り尽くされたようにして亡くなってしまったヴォルフガング。
念願通り神の子を滅ぼしたはずなのに、かけらも満足しはしなかった。
ようやく神の声が聞けるようになろうとしていたその時に、全ては終わってしまった。
そしてサリエリは、30年以上にわたって苦しみ続ける。
己の最大の罪は、モーツアルトは孤独で寂しいただの人でもあった点に思い至らなかったことではなかったかと、気づくのだろうか。
神がサリエリに与えた本当の役目とは、神の声を具現化する者ではなく「神に愛される者アマデウス」を理解し寄り添い助けることではなかったのか。
だとしたら、サリエリが「自分が創造者として成功したい」と望んだことが罪なのか。
「創造者になりたい」ではなく、「成功したい」と思ったことが罪なのか。
神は求道者サリエリには優れた耳を与え、渇望を癒すことは一切しなかった。
寵愛する楽聖アマデウスには、音楽の才以外のものは何も与えなかった。
二人とも、神に与えられたものによって悲劇の道を歩んだ。
神は仕える者の幸福など望んではいない。
神とは一体何なのか。なんと無慈悲な存在か。

※「クソ女」なんて表現をしてしまったが、別にコンスタンツェは嫌いではない。
可愛らしい顔にそそられる胸。それでいて計算高い。嫌いじゃないよ。あの場面では殺意が沸いたというだけ。


ディレクターズカット版も見たが、ムダな追加が多い。
特に、コンスタンツェが審査を頼みに来た後、夜来させるという変更。
一切書き直しのない譜面がオリジナルだと知った衝撃だけで、神との決別へ至るに十分だった。
なのに、コンスタンツェを呼びつけて拒否してみせる意味がわからない。
確かに、以後彼女がサリエリを毛嫌いするようになる理由は通るが、そこは些末な問題のような気がする。
愛犬家の娘を教えに行く(後半その家に借金に行く)シーンも不要。
何がしたかったのかわからない。
これからご覧になるのなら、オリジナル版をおすすめする。
全編に流れる音楽が素晴らしいことなど言うまでもない。
映像が美しいのも、またしかり。
それらは、名作としてのこの作品のほんの一端でしかない。

蛇足ではあるが、何気に一番好きな登場人物は皇帝だったりする。
カワイイ。楽才ゼロなのに必死で弾いて。
皇帝の姪も「姫には被害にあうような才能はない」って…。
音楽音痴一家ですか。
譜面が全く読めないけど聞くのは好きな私は、大変共感します。


---ここまで----------------


ここからは、現在の私からの追記です。

文字数制限があったので、このレビューはかなり四苦八苦した記憶があります。
全然、字数に収まらずに、かなりの量を削除しました。

それだけ、この映画に対しての感想は山盛りで、いろんな要素が入っているのです。

サリエリの気持ちも、モーツアルトの気持ちも、わかる。

サリエリにも、モーツアルトにも、感情移入できる。


ある面では、私はサリエリそのものであり、またある面では、モーツアルト。


上に移植した文章を書いた後も、何回かDVD見ました。
もちろん、オリジナル版の方をね。

上の文章を書いた頃、私はまだ天使業界には来てなかったし、そもそもそんな日が来ようなどと、夢にも思っていませんでした。
(天使って痛いじゃん、とか、真面目に思ってたし…て、今もちょっと思ってるけど…)

でも、もともと思春期頃から、哲学的な思考に嵌る傾向にあったので、「神とは何だ」ということを、しょっちゅう考えていました。

なので、好きな作品というのも、「神とは何だ」というテーマを思索するのに適した内容であることが多かった。
そして、このレビュータイトルに見られるように、神を否定する…あるいは疑問を呈するような感覚が大きかった。


今も、相変わらず、神を否定したり、拒否したり、疑問だらけだったり…しています。
以前とはスタンスは変わってきましたが、それでも、基本的に、

「神とは人間を愛しているかも知れないが、人間にとって都合がよいような存在ではない」

と、考えています。



上のレビューの中に、サリエリがモーツアルトの曲を口述筆記で譜面に起こしていく場面に関する記述があります。
ほんとに、あの場面で譜面を取り上げて乱暴に棚に放り込むコンスタンツェには、何回見ても殺意を感じる(笑

なんと言いますか…。

あそこまでの究極の状態になったら、もはや、「人間としての肉体なぞどうでもよいわ!」とさえ、感じるんですよね。
肉体のモーツアルトが滅びようと、今彼の中から出てこようとしている楽曲を残す…残す、というよりは、生まれさせる…取り上げる…世に出す…カタチにする…うーん………なんかどれも、ちょっとズレてるな~。
まあ、表現をどう言おうとも、「楽曲>>>>>>>>>>人間としての存在」に、なってしまうのです。
私はね。

それを完成させるまで死ぬな、完成させたら自由にしてよし!

くらいに、思う。



そして、そこまで思わせる神、というものが、やっぱり無慈悲で人間の都合は二の次な存在である…っていう風に、思う。

楽曲(=神の言葉)を、人間界に下ろすための媒体として存在し、人としては破綻しているモーツアルト。
そういう媒体でありたいと願ったのに、選ばれることがなかったサリエリ。

サリエリは凡人ではなかった。
非凡であったが故に、野ザルのような若造の中にある神性に気づくことができ、また、気づいてしまった。

神に選ばれなかった者ばかりを見ていたのなら、サリエリは幸せな音楽家として生涯を送れたかも知れない。

選ばれた者を見てしまったから、自分が選ばれていなかったことを、否応なしに認めるしかなくなる。


あの映画では、それは楽曲であったわけで、楽曲ではなく別のものかも知れない。


あまりにも愛しすぎてしまうと、憎むしかなくなる。

そんな感覚になってしまうほどの「何か」が、自分の中にある…ということは…どういうことなのだろうか。



そして、このような、実生活に役に立たないことをつらつら考えていられる社会、国、家庭、環境…にいられる自分というものが、とても恵まれていて幸せなのだな、ということも、思うのです。

(しかし、そこに留まることができない因果な志向性も、非常に感じるのです)


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