今日、12月10日、父が死んだ。私の乳房全摘手術の3日後の出来事となった。15日に沖縄に帰ったら母を施設から家に戻して、元気で明るい母の顔をまた父に見せてあげられると楽しみにしてたのに、、、。私の手術後、右胸からの出血が思ったより多いので、その旨を病院に連絡しようと思っていた朝の8時半ごろ、弟から電話が来て、「朝、気づいたら、お父さんが死んでた。」と突然報告された。喉の筋肉反射がものすごく弱っていた上、普段から痰が絡むことが多い人だったから、誤嚥性肺炎の予防のためにも、これまでずっと痰の吸引は欠かさなかった。夜になると、昼間よりも痰が絡むことが多いらしく、喉からガラガラ音を立てるので、家庭で介護を始めてから痰吸引のために朝まで寝ずに父の世話をすることも多かった。6日に乳がん手術のために東京に出発する際に、父に「手術に行ってくるけど、大丈夫だよ、10日ほどで帰ってくるよ、その時にお母さんも家に帰ってくるよ。」と告げた時、普段はほとんど反応の無い父が、私と目を合わせて何かを言おうとしていた。口を懸命に動かそうとしてるのが分かった。声にはならなかったので、聞き取れなかったけど、私が言ってることがわかって、そのことについて何か言おうとしてるに違いないと感じた。娘が手術をすると聞くと、やはり父親として、精神的に/霊的に、何かを強く感じるんだろうか、とその時思った。

手術後は一晩だけ絶対安静の状態で、同じ姿勢でベッドに朝まで寝ていた。その時に、父の床ずれができている所と同じ腰の部分が、自分の体重のせいで、横になってるにもかかわらず、ものすごく痛くなった。父は2年前に入院生活が始まってから次第に動けなくなり、面会が完全禁止だった最初の病院ではリハビリもしてもらえず、ベッドにただ横になった状態で一年近く放って置かれた。そこからやっと出れた時には、体が木製の人形のようにガチガチに固まっていた。両手も胸の中心へ向けて交差して縮こまり、両膝も曲がらず、自分の意思では体のどの部分も動かせなくなっていた。意識もあるのかないのか分からない状態で、コミュニケーションは全然できない。その後家に連れて帰るまでに、家庭で介護できる段階まで持っていくために入院した病院では、毎日リハビリテーションをしてくれたおかげで、体は全然動かせるようにはならなかったけど、たまに介護士さんに「おはよう」と言う時もあるまで回復を見せた。そこに4ヶ月余り入院した後、ようやく家に連れて帰れたところだった。それから今日まで3週間程家で過ごせたけど、母と一緒だったのは、ほんの数日。母は市の介護認定のため施設に帰らなきゃいけない週と重なり、そして私の東京滞在の間、弟は両親を一緒に看るのは気が乗らないようで、母を家に戻すのは私が沖縄に帰ってから、となった。死ぬ時、母とは一緒にいられなかったけど、私が東京に向かう二日前の夜、孫の三兄弟が本当に久しぶりに父に会いに来た。その晩は、父の様子は普段と全然違い、しゃべりはしないものの孫たち一人一人を目で追いかけていた。かなり意識がはっきりしてるのが明らかだった。相当嬉しかったんだろう。人間の体の機能は、精神状態にものすごく左右される証拠を見せられた。前よりも健康状態が落ち着いたと思っていた矢先の突然の死。先週末、孫たちと会う機会があった事、本当にラッキーだった。高二、高一、中三の彼達にとっても、大人になっても思い出すことのできる良い思い出になっただろうと思う。うちの父は、本当にこの孫たちのことが大好きで大好きでたまらなかったなぁ。

私は、人の魂は死なないと信じているので、肉体の束縛から解き放たれた父は、まず真っ先に母に会いに行ったんじゃないかと想像する。めったに来ない孫達はいるのに、母がいない状況は、父にとっては少し変だったと思う。「母に何かあったんじゃないか?!」と心配させたくなかったので、その後何度も耳元で「お母さんは大丈夫だよ、10日後位に戻ってくるよ」と何度も言ってみたけど、そのことを理解したかは定かじゃなかった。母のことを心から愛してた父だから、思うだけでどこにでも行ける魂となった父は、真っ先に母の無事を確かめただろう。そしてその後安心した父は、私のところにも来てくれるかもしれない。いつでもWelcome だよ、お父さん‼︎

そんな大きなニュースがあった朝だったけど、昨日の晩から術後の廃液が多くて心配していた右胸は、昼過ぎ位からは、脇から出ているチューブの先に付いてるバッグに廃液(真っ赤な血液)の貯まるペースも減ってきた。これももしかしたら父が助けてくれてるお陰かもしれない。生きていたら全然動けない状態の父は、不自由だった体を脱ぎ自由の身/魂になることによって、がん治療を始めた私のサポート役にまわれるように自らの意思つで死ぬ事を急いだのかもしれない。自分のためには0%、家族のためにいつも100%だった父ならやりかねない事だ。

子供から青年期にかけて、私はお父さんの持ってる壮大な家族愛が見えなかった。こんな素晴らしい他愛精神に溢れた両親の元に生まれた自分のラッキーさに気付けなかった私は、無意味に自分から思考のエネルギーを不幸の方向へ向けていた。ひどい時は、それを毎日毎日6~7年続けた。両親に多大な迷惑をかけた。そしてそれでもなお、彼らは私をいつでも許し、愛してくれた。凄い人達に育てられたらものだ。

私は、今、癌だろうが何だろうが、自分の人生に感謝しかないし、全てを楽しめる様な思考を常に選択している。これも、両親が私を”無条件の愛”で包みこんでくれたおかげだと思う。”無条件で愛された記憶”ほど、私が私を生きる強い土台になってるものはない。自分を100%信じ切れるのも、このせいだ。お父さん、お母さん、最高の愛を惜しみなく降り注いでくれてありがとう。この世での素晴らしい経験を積んでいける基盤と、絶対なる安心感と言える感覚を心身共にまず体験させてくれたことに感謝します。

私は、とんでもない幸運の星の下に生まれました。この宇宙の采配にも、感謝します。