人は対話することで相手を知り、理解し合える部分はあるとは思うけど
個人的には対話が全てみたいなのは苦手だし
話をして打ち解け合って仲良くなりましょうというのを押し付けられるのはもっと苦手だ。
その辺りは無理に作るものではなく自然のままでいいのではないかと思う。
夫婦として同じものを見てひとつに。 とか、
夫婦間で共有し合えていることが夫婦愛みたいな考えも苦手です。
別に同じものを見ていなくても夫婦としてひとつになれることもあるし
相手とは違うものを見ているからこそより良いものになるというものもあるし、
夫としてのうつ病のサポートなんてまさにこれだと思った。
相手が見えていないものをこちらがどれだけ冷静に見れているか。
その辺りが大事になるかなと思うけど
献身的な夫婦愛で足並みを揃えてやろうとしている人ほど案外脆かったりする。
相手への自分の思いの押し付けが大きくなりやすい。
個人的にはうつ病よりも、心因性発声障害のほうが大変だったと思う。
言葉での意思疎通が難しかったりするから
会話の無い生活に耐えられなくなるだろう人も多いのではないかと思う。
筆談をしていたらリハビリにもならないし発声する感覚を忘れてしまう。
普段から声を出すことが重要だけれども
言葉を発することがままならない事に対してのストレスは膨大で
それに対しての対応はとても繊細で大変だ。
言葉での意思疎通に重きをおいている人は耐えられないし相手を傷つけてしまうだろうね。
当たり前に使っているコミュニケーションツールを突然失ったら
あなただったらどうするだろうか。
別の価値観の人にとっては 自分という人間は
きっと変というか普通ではないということになってしまうのだろうけど
そういう人ほど自分の価値観で全てを判断し強要してきたりということが多いから
そういう人に関わるのはめんだとさいなと思いながら生きてきた。
そういう生き方であっても特に不自由や困ることはなかったかな。
普通に会話は出来るし普通に人に溶け込める。
自然に生まれる会話。自然に生まれる相互理解。
自然に生まれる信頼、絆。
別に意識してやろうとししなくても、自然とそういうものが生まれてくる機会はある。
その人と接する中で自然と通じ合えるもの。
同じ仕事をする中で知ることができるもの。理解し合えるものだってありますよ。
自分はそういうものでも十分だと思っているタイプの人間なので
言葉ではっきりと伝えあうことに重きをおいている人にとっては
とても付き合い難い人間になるのだろうと思う。
それでも悪い事ばかりではないし理解し合える人もいる。
自分はこういう人間なので私はこうですで生きているけど
それをもし変えてしまったら自分らしさってどこにあるんだろうと思う。
そのぐらいかな。
別に妻が心因性発声障害で話せない事もそんなに苦でもなかった。
そういうところはこういう自分でよかったところだろうと思っている。
なぜだかはわからないけど娘は自分とは真逆なタイプですね。
とても人には好かれやすい。
どこからあんなおしゃべりな子が生まれてきたんだろうと思いますけど (笑)
ここで質問。
どうして話を盛り上げなくてはと考えるんだろう?
人との会話というのは盛り上がらなくてはいけないのだろうか?
当然話が弾まなければ楽しくないしつまらないという人というのもいるだろうが
自分にとって自然ではないことをしようと意識するから
言葉を考えなくてはならなかったり選ばなくてはならなかったりするのではないだろうか?
もっと自分の素直な言葉のキャッチボールでもいいのでは?と思うかな。
だってもうそこで自分らしくないことに無理しているだろう?