(前回記事)

心の履歴(153) 
1980年代の防衛庁談合のこと
2009/06/24 著

https://ameblo.jp/minaseyori/entry-12749611399.html

 

(今回記事)

悪たれ口の減らない男達
2009/07/05 著

我がFM(Food Machine)営業部本社直販課の竹尾課長(タケちゃんマン)の私への批判のボルテージはアップしていきました。


その私と言えば、大口取引や卸販売、企業への新規事業の提案が主体でした。

竹尾課長に言わせると、大口取引や卸販売の仕事は腐っている。個人商店飛び込み営業こそ営業マンの誇り。拠って水無瀬は腐っているという論理でした。

その竹尾課長が関西でFM部署内キャンペーンを開始しました。対象は京都営業所と大阪支店、神戸営業所のFM課に所属する営業社員。


内容は、営業マン一人が、サンヨー製UCCマークの缶飲料自動販売機(@28~@48万円)を三ヶ月間で24台直販したなら三洋電機製20吋カラーテレビ一台進呈というものです。

 

そのFM部署内キャンペーンを私が知ったのは二ヶ月経過した時、山村部長から知らせてもらったのです。

 

山村部長は竹尾課長にUCCのことなら東京の水無瀬を外せないとして遅ればせながら私もその対象となったのです。

それまで二ヶ月間で10台は片手間で販売していましたので、残る一ヶ月で14台。さてさて、どうするか? 

 

卸販売は対象外。従来の仕事を消化しながら一ヶ月で直販14台は到底不可能。

直販と判定されるには、顧客との契約書が要りますが、クレジット販売ではクレジット会社が直接顧客と契約するため、会社の契約書は不要なのです。

そこに着目し、日立クレジット澁谷営業所とサンヨークレジット埼玉県下各営業所でUCCマーク缶飲料自動販売機の説明会を開き、クレジット会社の社員に販売を依頼しました。

日立クレジットは結果として実績が上りませんでしたが色々と動いてくれました。サンヨークレジット所沢営業所の二名の営業マンは一ヶ月で合わせて5台を販売してくれました。

他方、私の方は、従来の顧客に電話を入れ、紹介を依頼しました。早速、埼玉県志木市東武東上線沿い旧道の酒販店の親父さんが、同じ道沿いを北上した友人の店を紹介。次にその友人が更に北の友人を紹介。

 

http://niiza-shoo.cocolog-nifty.com/blog/2015/02/20141011-be90.html

トントントンと連鎖紹介で北上し、月末近くにたどり着いたのが東松山市の郊外ドライブイン「田園」(山田うどん)。芋づる式とはこのことを言うのです。ここ田園の芋が9台目で三ヶ月間合計24台丁度。

二ヵ月後、20吋のカラーテレビ(収納台座付)が送られてきました。直販の竹尾課長、本社でうめき声をあげたそうです。「まさか、水無瀬が達成するとは!」

私の仕事は、単なる大口顧客や継続卸し取引先をホローでは無いのです。

先ずは、アポや飛び込みで自ら企業を開発。更に、開発した企業に、その事業の新たな展開や次の事業を提案し、軌道に乗らせること。

ですから商店への単なる物販のレベルではないのです。この仕事の難易度に竹尾課長が気づくのには1年かかりました。

他方、
当時は、都内で独立して事業を始める人が多かったのです。と言いましても、東京ではいつものことでしょうが。

 

独立して5年後、年商200億円のやり手の人もいました。
その中の一人、私が担当したのは、西新宿の西武線沿いビルで独立した山崎氏(当時27歳)。彼は友人5人と独立。

事業が成功した基は、独立した時に山崎社長の田舎で小店をしていた父親を連れてきて、事務所の中に座らせたことでしょう。田舎の小店は母親が一人で切り盛り。

この父親は大人しい人で、息子の社長の隣の机にニコニコと座って社員に短く優しい言葉をかけるだけ。それだけで若い営業社員にとっては何となく安心出来たようです。

それから瞬く間に関東・北関東に支店を数箇所作り、営業マンも100名を超え、三年目で年商60億円までいきました。

急成長のこの山崎社長に対して我等の耳の痛い主張。 

「内部留保を増やせ! 夜の銀座通いは週二日に限定せよ!」

更に「トヨタの新車は買うな! この車をトップが買った企業は間も無く倒産している」

1977年(昭和52)当時、この車の価格は470万円でした。社長にごちゃごちゃと小うるさい事を言うのが我等の特徴。反して他社ライバルメーカーはおだてて夜のお付き合いをするのが特徴。

知らない間に他社メーカーの紹介でトヨタの新車を購入しました。更に夜の銀座に女性が出来ました。

それを見て、我社は取引を一気に縮小。
逆に他社(F社他)は一気に取引が増えた訳です。

案の定、それから一年後、この企業は破綻。他社には億単位の回収不能債権が発生。我社は取引規模の大幅縮小と取引保証積み立て金を入れさせていましたから無傷で済みました。

さてさて、この1977年と言いますと、東京支店でも人事異動が一気に行われた年でした。

BB課の突飛な高田課長に代わって本社守安経理課長が東京支店BB課長として着任。洋子と不倫した田吉主任に代わって本社経理杉山主任(仮称)が東京支店総務主任として。

早撃ちマック森広支店長は、福岡支店長として。それにくっついて中江金魚の糞も福岡支店へ。新たな東京支店長として京都営業所から田中支店長(仮称)が昇進着任。

田吉主任の送別会の時です。お互いに悪たれ口を叩く者同士が酔った勢いで最後の悪たれ口。

「うちの息子を創価大学の法学部に入れ、司法試験を受験させて検事にするんだ! そして、水無瀬と中江を逮捕して刑務所にぶち込んでやる!」

「オォ~オ! 幼稚園のガキに今からけしかけているのかい? まあ、奥さんに似て親父よりは利口かもしれんが」

「その時は、親父に似て立派な若ツルッパ(Hage)になっているだろうな。まあ、ツルッパ息子一人だけで何とかなるもんじゃないよ」

「驚くなよ、学会には司法試験合格者が80人程いるのじゃ! 息子が大人になった頃には、裁判官と検事の半数以上がうちらの者じゃ! その時、真っ先に泣き付いて来るのが中江よ、おまえだ!」

「なんでわしが泣き付かなきゃならんのだ。二代目若ツルッパ(Hage)に。」

「勤務時間中、競艇に行った事がばれて首! 就職口が無くスリやかっぱらいの常習犯になるからだよ。腹が減ったと泣いて口を開けて待っている鼻垂れガキとデカパン女房の為に。」

田吉ツルッパの送別会は、最後の悪たれ口の応酬でした。

 

つづく

 

 

 

心の履歴30代

①入社編:目次

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