(前回記事)
心の履歴(北-追1)
誰も務まらなかった仙台支店長
2022-02-22 (2013/01/12 著)
https://ameblo.jp/minaseyori/entry-12728005678.html
この前回記事で、「私は在職中の1995年には既に知っていましたが、この会社の存続可能期限は2005年であり、この2008年では既に過ぎていることを。彼は会社のやがての破綻を全く知らないのでした。」と述べましたが、これについて以下に説明します。
(今回記事)
心の履歴(北-追2)
1994年のことです。
それまで㈱ウズマサは、1980年代後半からLL社のロゴ機の新台1台につき、以降の10年間の維持管理メンテナンス料金として10万円を前受け金として受領し、それを1年経過するごとに1万円を前受け金から売り上げ金として10年間処理していました。
処が、1994年、LL社は、この10年契約を破棄し、メンテナンス事業を、LL社の退職した社員で新会社を設立し、その会社で賄(まかな)うと言ってきたのです。
この交渉にあたったのが、メンテナンス子会社総括の菊地取締役(註)を蚊帳の外にし、食品機器担当で若くして取締役になった淀部長と、同じく若くして取締役になった製造部の男山部長でした。
(註)菊地取締役
私の札幌から本社に転勤した私を競馬に誘った10歳年上の人で、お互い、退職してからはパカパカ友として、度々淀の指定席で待ち合わせをしました。
翌年の1995年、この二人は、LL社の言う通り、1997年度以降の新台出荷の場合、10万円の前受け金は無しとなり、新会社の社員が直せない場合は、我が社グループのメンテナンス会社が対応するという内容に調印したのです。
これに激怒したのが、菊地取締役。
強引に契約書破棄をLL社に宣言し、単独で東京のLL社本社に乗り込み、再度交渉をしたのです。
LL社新会社の社員たちは素人で、然も、パーツのストックもない。これでどうして直せるのか。
直せない場合に備えて、我が社グループのメンテナンス社員は、常時、それまで販売した約50種類の機器のユニットとパーツを車に搭載していなければならない。
然も、メンテナンス社員が駆け付けた場合、請求できる費用は僅か数千円。子供騙しの金額である。彼等若き二人の取締役のLL社との交渉とは、交渉ではなくLL社の要請に従っただけである。
残念なことに、菊地取締役の交渉では、LL社と二人の取締役と一旦交わした契約書の内容を根本的に覆(くつがえ)すことは出来ず、せいぜいパーツやユニットのストック費用と、修理費用の若干の増額でした。
これにより、それまで新台1台につき10万円の前受け金を元にメンテナンス体制を万全に創りあげてきた㈱ウズマサ、並びにそのメンテナンスグループは、やがては崩壊することを意味しました。
それまでは、毎年、LL社ロゴ機を4万台前後販売してきており、契約で1台に10万円の前受け金の受領開始で、毎年、合計で40億円の前受け金を受領していたのです。
故に、この契約開始から10年目以降、毎年、前受け金の中から40億円を売り上げ計上してきたのです。
つまり、この契約が破棄されると、破棄される1997年から売り上げ計上できる金額は、10分の1づつ減額となり、10年後の2006年には売り上げ計上額はゼロとなるのです。
それだけではありません。数百億円の前受け金で、無借金経営の超優秀なる企業の看板と評価は消え、資金繰りに苦しむ赤字企業グループに転落してしまうのです。
参考まで、下記の表では、1996年までの新台1台につき10万円の前受け金と各年の売上高は10万円でしたが、1997年以降、新台1台につき10万円の前受け金が皆無となると、1997年以降、毎年、前受け金の売上額は1万円づつ減っていき、10年後の2006年には前受け金が空になる。つまり、前受け金の売上高はゼロ。
それだけではありません。豊富な前受け金があったからこそ、無借金経営ができたのですから、1997年以降は前受け金も減っていき、恐らく、2000年頃から資金繰りに苦しむことになるだろうと予測されました。
更に、1991年早々にはじけたバブルの影響は、当初、この業界には影響はありませんでしたが、1993年頃から市場の極端な縮小が始まったのでした。
余談を言えば、営業本部ではそれまで接待交際費の使い放題(註)だったのが、急遽、管理部から接待交際費を半額にせよとのおふれがまわったのです。
(註)会社の単独年商の最盛期は470億円。経常利益は170億円。無論、管理部も前受け金で運用していたのです。税金で半分以上も持っていかれるから、それなら接待交際費は使い放題となったのです。自宅が祇園に近い吉田専務は、仕事が激務で胃の調子が悪いと称し、毎朝、胃薬を服用していましたが、管理部から接待交際費を半額にとの要望後、胃炎はピタリと止みました。
LL社と若き取締役2名の交渉が始まった1994年、その交渉内容を聞きつけた管理部門の社員が、私にひそひそ話で、この1台につき10万円の前受け金が無くなると、この会社の財務諸状況はどうなるのかを話したのです。
その翌年の1995年、交渉が好転せず、1997年から前受け金がゼロと確定した故に、管理部門の社員はこの企業グループの存続期間は、2005年までと断言したのです。無論、内緒話として。
換言するなら、当時の社長へのYESマンで構成された取締役と、社長と吉田専務の縁故人事や村中専務の金魚の糞で構成された組織では、年商数百億の食品機器に相当する新たな事業を創造できなかったのです。
私がこの企業を去った後、社長は京大医学部に数千万円の寄付をし、自ら医学部との交渉の先頭に立ったとのことですが、このことは、有能な人材がいなかったことを如実に表したものです。
それに、社長の目指すこの事業が例え軌道に乗ったとしても、せいぜい年商10億円。焼け石に水。それに寺社に1億円の寄進。
経営感覚が狂ったとしか言いようがありませんでした。
案の定、会社は倒産ではないにしても、解散の道を歩んでいったのです。
つづく