(前回記事)

ドラッカー(23)
GEでの思い出
2021-12-05 
https://ameblo.jp/minaseyori/entry-12712849011.html

 

(今回記事)日経

ピーター・ドラッカー(24)

マネジメント科
NY大の初代学部長 

ハーバード移籍 4回断る

ゼネラル・モーターズ(GM)の調査をきっかけにコンサルタントとして一本立ちしたといっても、そればかりやっていたわけではない。大学教授もずっと続けていた。

1949年のことだ。それまで7年間暮らしていたバーモント州の田舎町を離れ、ニューヨークへ戻ることになった。

妻も子供たち(娘3人と息子1人)もみんなバーモントを気に入っていたけれども、地元の寄宿学校へ入りたがらない長女キャスリーンの教育を考えれば仕方なかった。

そのためにニューヨークのコロンビア大学で教えることに決め、契約を交わした。後は、当時の学長で、数年後に米国大統領へ就任するドワイト・アイゼンハワーが署名するだけ。

授業の下準備をするためにコロンビアを訪れると、なんとアイゼンハワーは財政難を理由に署名を拒否したことを知ったのである。

突然失業の身になって茫然としながら地下鉄の駅へ向かうと、ニューヨーク大学(NYU)のビジネススクールで教えている顔見知りの男に出くわした。

「こんなところで何しているのです?」
「コロンビアでマネジメント(経営)を教えるはずだったのに断られてね」

「偶然ですが、ちょうどマネジメント科を立ち上げるので、教授陣を探しているところなのです」

またしても幸運の女神が味方してくれた。その場で私は採用され、1週間後には早くもNYUで働き始めた。そこでマネジメント科を創設し、学部長に就くことになる。

 



正式科目としてマネジメントを教える大学としては、NYUはハーバード大学、マサチューセッツ工科大学(MIT)に次いで世界3番目。

私はここで、1971年にクレアモント大学へ移籍するまで22年間にわたり教壇に立つことになる。

その後、ビジネススクールで経営者養成のためのマネジメント科が大ブームになる。いわゆる経営学修士(MBA)が大量生産される時代が幕を開けようとしていた。

本当はビジネススクールで教えることになるとは想像していなかった。当時はマネジメントといっても必ずしもビジネスとは結びつかず、私は政治学の領域に入ると思っていた。コロンビアでも、新設の米国研究科でマネジメントを教える契約になっていた。

余談だが、ハーバードからも誘いを受けたことがある。それも1回どころではなく4回もだ。このうち2回はビジネススクール、ほかの2回は政治学や行政学を専門にするケネディ校からの誘いで、すべて断っている。ハーバードからの誘いを4回も断った人間は、ハーバード史上で私が唯一ではないかと思う。

最大の理由は、月に3日間を超えてコンサルタントの仕事をしてはいけないとの規定だ。

「マネジメントを教えるには実務経験が欠かせない」と主張したけれども、ハーバード側は「ケース(事例)を書くことで実務経験を得られる」と言うばかりで、一致点を見いだせなかった。

NYUでは、マネジメントの教授陣にエドワード・デミングも加えた。品質管理(QC)の大家で、日本では「デミング賞」で知られる学者だ。彼の娘とは最近も会ったばかりで親しい。彼とのかかわりについては次回にしよう。

 

つづく

 

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