ドラッカーが「マネジメント」の著作に至るまでのプロセスなんですが、その神髄にいかにして達したかはもうちょっと先のようですね。

(前々回の記事)日経
ドラッカー(12)シティーに3年
2021-09-23 

https://ameblo.jp/minaseyori/entry-12699680878.html

(前回の記事)日経
ドラッカー(13)米国へ
2021-10-04 

https://ameblo.jp/minaseyori/entry-12701770209.html

 

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ピーター・ドラッカー(14)新聞に売り込み
形式張らず米国流に ワシントン・ポストと契約

 

米国ではだれもが形式張らず、くだけている。米国移住から60年以上経た今も、職場の女性たちを「ガールズ」と呼ぶことに抵抗を感じる。1937年の米国移住直後はなおさらだった。

しかし、郷に入っては郷に従えだ。欧州を舞台に第2次世界大戦が始まれば英国の新聞社などからの仕事はなくなる。ここは米国人になり切って形式張らずに自分を売り込み、米国で完結する生活基盤を築かなければならない。まずは新聞社に狙いを定めた。

大戦前の米国では、欧州など海外ニュースの発信で独自の取材陣を抱えていたのはニューヨーク・タイムズなどごく少数の日刊紙に限られていた。今では米国を代表する新聞社ワシントン・ポストも、当時は新社主、ユージン・マイヤーの下で評価を高めていながらも海外ニュースは他社からの配信に頼っていた。

こんなことを知ったのは、米国移住から1年後の1938年春のこと。ちょうどナチスが故国オーストリアを併合し、欧州情勢は緊迫の度合いを高めていた。欧州関連の記事ならお手の物。「これはチャンスじゃないか」とひらめいた。

早速ワシントン・ポストに電話を入れて海外面の編集者の名前を聞き出し、彼を抜き打ち訪問した。

 

(画像)マイヤー社主

 

するとマイヤーのところへ案内され、「原稿を見なければ掲載は約束できないから拒否権は確保しておきたい。前金を払う義務はあろう。2本分の前金でどうだ」と言われた。

たったのこれだけで話はまとまった。抜き打ち訪問からわずか2時間後に、前金150ドルと契約書を手にしてワシントン・ポストを後にしたのだ。

 

150ドルは当時としては大金で、大西洋を横断する国際線の旅費を除けば欧州での取材費の大部分を賄える。すぐに欧州へ数週間出張し、現地から6本か7本の読み物を送った。

ワシントン・ポストでうまくいったのなら、雑誌でもうまくいくのではないか。すぐにサタデー・イブニング・ポストが思い浮かんだ。当時は全米最大の週刊誌で、画家ノーマン・ロックウェルのイラストが毎週の表紙を飾ることで有名だった。

ワシントンからニューヨークへ列車で移動中のことだ。ふと編集部を訪ねようと思い、フィラデルフィアで途中下車した。事前の約束なしでまたもや編集者が面会に応じてくれた。

 

「考えは面白い。それで1本目はいつもらえる?」。すぐに原稿を送ると、5日後に「数行カットしたけれども、残りはそのまま掲載するよ」との電話をくれた。この雑誌は原稿料をはずむので助かった。

この時以来、新聞や雑誌とはずっと仕事をしている。最大の経済紙ウォールストリート・ジャーナルでは、1975年から20年間にわたってコラムニストを務めた。

 

ただ、どの新聞でも雑誌でも、いつも私から「こんな記事を書きたい」と売り込むのであって、「こんな記事を書いてくれ」と仕事を振られることはない。唯一の例外はワシントン・ポストでの初仕事だ。

フリーランスの書き手として第一歩を踏み出したこのころには、ロンドンで執筆に着手した初の本格的な著作『経済人の終わり』を脱稿していた。ところが問題があった。これを世に出すことに二の足を踏む出版社ばかりだったのだ。   つづく

 

ドラッガー書庫
https://ameblo.jp/minaseyori/theme-10114934951.html
https://www.nikkei.com/article/DGXZZO49035540X20C19A8000000/