ピーター・ドラッカー(11)妻ドリス
ロンドン、最高の再会 父の「お使い先」が仕事場に

 

(前々回、前回記事)

ドラッカー(9)記者兼教授 ヒトラーに直接取材
2021-07-04 
https://ameblo.jp/minaseyori/entry-12684414196.html

 

ドラッカー(10)ドイツに別れ;「ユダヤ人は即解雇」に激怒
2021-07-08
https://ameblo.jp/minaseyori/entry-12684724298.html

 

ロンドン、最高の再会 父の「お使い先」が仕事場に
1933年にフランクフルトでのすべてを投げ捨てて、この年の春にはロンドンの地を踏んだ。

土地勘のない大都市で、知り合いは全くいないも同然だった。

食べていくためにはとりあえず何かしなければいけない。

とはいっても大恐慌の最中であり、簡単にはいかない。

 

やっと探し出した大手保険会社の証券アナリストの職も、数カ月で片がつく事実上の見習いに過ぎなかった。

そんなある日、地下鉄のピカデリーサーカス駅にある英国最長のエスカレーターの上りの側に乗っていると、下りの側に見覚えのある若い女性を見つけた。フランクフルト大学時代に知り合い、後に妻となるドリスだ。

 



お互いに狂ったように手を振り合った。

私は上りきると下りに乗り換え、彼女は下りきると上りに乗り換える。そんなことを4回も繰り返しただろうか。

 

そこでようやく私が乗り換えをやめて合流できた。

私にとって人生最高の瞬間だったと思う。

一足早くロンドンに渡っていたドリスはロンドン大学に籍を置き、国際法で有名な教授の助手をやっていた。

 

お互いに相手のことはとっくの昔に視界から消え去っていたのに、この時はまるで古い親友に再会したかのようにレストランで話し込んだ。

この年のクリスマスを両親と過ごそうと思い故郷ウィーンへ戻ると、ドリスと離れてみて自分がどんなに彼女と一緒になりたがっているかを痛感した。

しかし、ロンドンで就職できる見込みはゼロに思えた。ウィーンでならどうにかなっただろうけれども、14歳の時にウィーンを離れる決意をし、17歳で外国で就職したのである。

 

ずるずるとウィーンにとどまるわけにもいかない。

これぞ失意のどん底という状況だった。

それでも人生そう捨てたものじゃないと思うのは、ひょんなことからチャンスがもたらされるものだからだ。

 

クリスマス休みを終え、重い腰を上げてロンドンで職探しを始めようと決心すると、父から「旧友の息子にささやかなプレゼントがあるから届けてくれ」と言われた。「ささやかなプレゼント」とは1.5メートルもあるハト時計だ。

 

それをパリでは駅から駅へ引きずったり、英仏海峡の両岸では船に揚げたり降ろしたりしながら、どうにかして送り届けた。受取人は、英金融街シティーの小さなマーチャントバンク、フリードバーグ商会に勤める男だった。

 

その男に昼食に誘われ、私の職歴などを説明すると、「証券アナリスト兼エコノミスト、リポート執筆者、パートナー秘書。この3役を1人でこなしてもらえるなら、すぐにでも雇えると思う」と言われた。翌朝から働き始めたのは言うまでもない。

 

一方、ロンドンで一緒になれたドリスも就職先を見つけた。小売業として世界最大になろうとしていたマークス・アンド・スペンサーに雇われ、同社初の購買責任者に就いたのだ。以来、彼女は90歳を超えた今に至るまでずっと手に職を持ち続けている。

 

失業者があふれていたこの時代に、2人とも20代前半(ドリスは2歳年下)でありながら仕事にありつけて幸運だったと思う。

 

ハト時計はというと、受取人に気に入ってもらえず、フリードバーグ商会に勤めた3年間、私の机の横で15分おきに間抜けな鳴き声を上げ続けた。   つづく

 

 

ドラッガー書庫
https://ameblo.jp/minaseyori/theme-10114934951.html
ソース
https://www.nikkei.com/article/DGXZZO49034890X20C19A8000000/