(前回記事)

ドラッカー(7)独ハンブルクに;本物の「大学教育」図書館で
2021-06-24 
https://ameblo.jp/minaseyori/entry-12680188669.html
ドラッカーが若かりしときにキルケゴールの著書との出会いは、恐らく彼の運命を大きく変えたであろう。

 

私も大学1回生の時の一般教養マスプロ大教室での授業で、若き教授が熱弁を奮うキルケゴール著「死に至る病」を習ったとき、それまでの私の人生の中で最も衝撃を受けた中の一つであった。

ピーター・ドラッカー(8)大恐慌
銀行倒産で記者の道 厳格な編集長、偉大な教師

 

ハンブルクの貿易会社での見習いを終え、1929年1月にまともな仕事を得た。米系投資銀行フランクフルト支店の証券アナリストだ。

 

アナリスト業のかたわら、今から思えばお恥ずかしい限りの「学問的」な計量経済学の論文を2本書いた。そのうちの一つは急騰を続けていたニューヨーク株式相場についてで、「さらに上昇する以外にありえない」と断じた。

 

 

論文は2本とも権威ある経済季刊誌の1929年9月号に掲載された。その数週間後の10月24日、ニューヨーク株式相場は歴史的な下げを記録。いわゆる「暗黒の木曜日」で、これを発端に世界は大恐慌に突入した。

 

以後、相場の予想は一切やらないことにした。当時の論文が現在、人目に触れる心配がないのが何よりの救いである。

 

「暗黒の木曜日」で私が就職した米系投資銀行もなくなり、失職。ところが、幸運にも同時に新聞記者になれた。

 

きっかけは、失職の直前に米系投資銀行本店から届いた「ニューヨーク株の暴落は近いうちにストップする」とのリポート。

 

それをドイツ語に書き直して、有力夕刊紙フランクフルター・ゲネラル・アンツァイガーに売り込んだ経緯から、同紙の編集者の1人とは面識があった。彼を通じて社主に会うと、その場で雇ってくれた。

 

入社後すぐに、20歳にして海外ニュースと経済ニュース担当の編集者になる。

 

社内で「発行部数50万部もある大新聞の重要紙面を経験ゼロの若造に任せるとはどうかしている」といった声が出てくると、社主は「海外面も経済面もだれも読んじゃいない」と平然と語ったものだ。その通りだった。

 

新聞社での初日は今も鮮明に覚えている。夕刊紙の性格上、午前6時に出社するように言われ、朝一番の路面電車に乗ってオフィスには6時ちょっと過ぎに着いた。

 

オフィスの前では、身長2メートルを超える男が時計を手に持って立っていた。編集長のエーリッヒ・ドンブロウスキーで、プロイセン人らしく時間に厳格だ。

 

「6時4分過ぎだ」

「たったの4分に何の違いがあるのですか」

 

「締め切りを理解していないな。言い訳は通用しない。6時までに出社できないなら来なくていい」

締め切りの厳守は新聞記者として学んだ1番目の教訓だ。

 

初仕事は、株価暴落のあおりで大手保険会社が破綻した事件に絡んで開かれた裁判の取材。だれからも記事の書き方を教わらないまま、とにかく裁判所へ行って検察官の話を聞き、記事に仕上げた。

 

私の記事を見ると、ドンブロウスキーは再びがなり立てた。

 

「検察官の名前は?」

「知りません」

「戻って調べて来い」

 

裁判所へ戻ると、検察官はすでに帰宅していた。次に自宅を訪ねると、玄関に出てきた大家は「名前は言えません」の一点張り。仕方なく、寝不足で睡眠中だった検察官をたたき起こす羽目になった。名前をメモすること。これが2番目の教訓だ。

 

指折りのリベラル派で鳴らしたドンブロウスキーは厳しかったが、私にとっては小学校4年生時のミス・エルザとミス・ゾフィー以来の偉大な教師となった。

 

つづく

 

ドラッガー書庫
https://ameblo.jp/minaseyori/theme-10114934951.html
https://www.nikkei.com/article/DGXZZO49034780X20C19A8000000/