それにしてもドラッガーの本は重たかったですね。
通勤電車内では到底無理。
読む場所と言えば飛行機の中でした。
特に札幌勤務時代。
機内が最も落ち着いて読めました。
毎月1回、千歳空港⇔仙台空港、後に、伊丹空港往復。
道内搭乗は月2回から3回。
主は、千歳、又は丘珠空港⇔釧路、次が中標津空港。
道東に用事があったのは確かですが、それよりも、本を読みながら、ふと目をそらし、日高山脈をヒラリとまたぐ光景が大好きでしたから。
’画像)千歳・丘珠⇔釧路航路で、日高山脈を横切る
女満別、函館、稚内、紋別各空港をも数ヶ月に一度は利用しました。
出張でのバックの中は、着替えと洗面用具だけなら軽いのですが、ドラッガーの本の厚さは何れも4cm前後ですから、これを入れるとズシリと重くなるのです。値打ちがありました。
(これまでの記事)
ドラッガー履歴書(1)基本は文筆家
2021-05-25
https://ameblo.jp/minaseyori/entry-12676512155.html
ドラッガー履歴書(2) 帝国首都生まれ
2021-05-26
https://ameblo.jp/minaseyori/entry-12676520476.html
(今回記事)
ピーター・ドラッカー(3)政府高官
父、大戦中に東奔西走 シュンペーター見いだす
第1次世界大戦の勃発で、父アドルフはオーストリア・ハンガリー帝国の戦時経済運営を担う主要な政府高官3人のうちの1人となった。
前回触れたように父は外国貿易省長官だった。この役所は18世紀に設けられた帝国最古のもので、そこで父は工業生産を指揮。ほかの2人のうち、1人は財務省高官で金融財政を担当、もう1人は農務省高官で農業を担当し、いずれも父の親友だった。
少し脱線するが、外国貿易省は唯一経済学者を雇い入れていた点で異色の存在だった。父自身も経済学者ではあったが、実態は若手経済学者を採用し、育成する「ゴッドファーザー」だったと思う。
父にチャンスを与えられた経済学者の中で特筆すべき人物が1人いる。「創造的破壊」が経済発展の原動力であるなどと説き、20世紀を代表する経済学者となったヨーゼフ・シュンペーターだ。
彼は戦前にはエジプトでの投機で大損したり、戦後には不祥事で財務大臣ポストをふいにしたり、常に疫病神に取りつかれていた。そんな時にはいつも父が救いの手を差し伸べ、就職の世話などをした。
話を戻そう。物心がついてきた私はいやが応でも戦争を意識するようになる。母が唯一の兄弟を亡くし、打ちひしがれているのを目の当たりにし、新聞の死亡者名簿に知り合いがいるかどうか調べる習慣を自然と身につけた。
8歳の時に私立学校へ転校すると、政府の戦時対策本部で東奔西走する父の姿を間近で見ることにもなる。戦時対策本部も私立学校もウィーン最初の高層オフィスビル内にあったのだ。
高層といってもたったの9階建てだが、子供にとっては大変だ。エレベーターの使用を許されないから、上階にあった教室まで毎日階段を上らなければならない。
でもうれしかった。しょっちゅう階段を下りては父と一緒にランチを食べ、宿題をやり、帰宅できたのだから。
大戦は4年間も続いた。帝国は10以上にもなる民族間の争いにかねて翻弄され、工業化でも出遅れていたことを考えれば、これだけ持ちこたえられたのも驚きだ。その背後に父らの働きがあったと思うと感慨深い。
戦争によって父の仕事は激変した。帝国は分割され、父は人口5000万人を抱える大国の役人から、人口650万人の小国オーストリアの役人となった。
1920年にはザルツブルク音楽祭を共同創設者として立ち上げ、その会長に就任。狙いは芸術の振興ではなく、観光客誘致による外貨獲得にあったと思う。
1920年代前半に退官し、銀行の再建請負人に転じた。当時、ウィーンには帝国をかつて支えていた大銀行が10行以上もひしめいていた。
当然ながらこんなにたくさんの銀行は不要で、次々と倒産する。そのたびに父は駆り出され、政府のために銀行清算を手がけた。それから10年後には銀行はわずか2行になっていた。
大戦勃発から戦後まで父の仕事はつらかったと思うが、父に厳しく当たられたことは全くと言っていいほどない。
唯一、私が7歳ごろだったか、父に飛びついて眼鏡を壊してしまった時に「二度とやるんじゃないぞ」と怒られた。世界で最も優しい父だっただけに、忘れられない言葉だ。
この連載は、2005年2月に日本経済新聞に連載した「私の履歴書」を再掲したものです。 つづく
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