私の履歴書に登場するドラッカー。

信奉するドラッガー。

 

(私のドラッカーの記事)

世子(15) 教材:ナポレオンヒルとドラッカー

2020-09-26 
https://ameblo.jp/minaseyori/entry-12627585804.html

 

ドラッカーの「マネジメント」の要約ビデオ

8分でわかる『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーのマネジメントを読んだら』 7分13秒

 

https://youtu.be/Wm20q86f_cE

 

もしも彼の著述の本と出合わなかったら・・・。

 

   ◆   ◆   ◆

 

(ドラッカーとは)

ドラッカーはなぜ世界を虜にしたのか
経営・戦略 ドラッカー日本公式サイト
2016.11.11 

https://diamond.jp/articles/-/106419
 

知の巨人ドラッカーが亡くなったのは、11年前の11月11日だった。あらためて氏の功績を振り返るとともに、なぜ、いまなお経営者やビジネスパーソンの熱い支持を得ているのかを考えてみたい。

 20世紀の知の巨人と称されたピーター・F・ドラッカー教授が逝去されたのは2005年。11年前の11月11日だった。96歳の誕生日を1週間後に控えてのことである。

「マネジメント」「ベンチマーキング」「目標管理」「分権化」「コア・コンピタンス」など、いまビジネスの世界で当たり前とされているコンセプトは、ドラッカーが生み出し、発展させたものである。

 

知識社会の到来、民営化、非営利組織の重要性、さらには近年ますます緊張感を増すテロの脅威についてもいち早く喝破していた。

 

その著作は、アンソロジーなども合わせれば、生涯で50冊は下らない。しかも、60代、70代、80代、90代と、ますます精力的に執筆活動を行っていたのだった。(以後省略)

 

その彼の『私の履歴書』(日経)を発見したので掲載する。

 

   ◆   ◆   ◆

 

ピーター・ドラッカー

(1)基本は文筆家
「マネジメント」を発明 

95歳、なお講義続ける

 



ピーター・ドラッカー
2012年10月2日 
2004年11月で95回目の誕生日を迎えた。補聴器は欠かせないし、今では歩くのもやっとだ。

大好きだった山岳ハイキングもやっていない。ご存じないかもしれないが、20年以上かけて日本の主要な山々を訪ねた。

 

富士山へも行ったし、妻と一緒に北海道で2週間過ごしたこともある。当時の北海道は人も少なく、息をのむほど美しかった。それをもう経験できないのは残念だが、体力の衰えは仕方ない。

ただ、仕事はいつも通りだ。カリフォルニア州南部のクレアモントの自宅にはファクスとタイプライターがあり、これが私の仕事の道具だ。

 

秘書はいないけれども、スケジュール管理はいつだって自分でやってきた。今も手帳は数カ月先まで仕事のスケジュールで埋まっている。

友人からは「もう仕事を引き受けるのはやめにして引退したら?」と言われることもある。

 

すると、私と結婚して2005年1月で69年目を迎えた妻は、「一体どうやって引退するの」と言いながら笑う。私には「引退」という言葉はない。


クレアモント大学ではゼミ形式の授業は数年前にやめたが、講義は続けている。今学期は2004年10月から2005年2月まで計5回。2004年は米誌に長い論文を書いたほか、過去の論文などをまとめた『ザ・デイリー・ドラッカー』も出版した。

パソコンは使わないが、長年の経験からかなりのスピードで原稿を仕上げる技術を身につけている。

まず手書きで全体像を描き、それをもとに口述で考えをテープに録音する。次にタイプライターで初稿を書く。通常は初稿と第2稿は捨て、第3稿で完成。要は、第3稿まで手書き、口述、タイプの繰り返しだ。これが一番速い。

仕事以外では、毎年新しいテーマを見つけ、3カ月間かけて集中的に勉強している。

 

2004年は明王朝時代の中国美術に取り組んだ。日本については水墨画のコレクションを持つほど詳しいのに、日本に大きな影響を与えた中国をよく知らなかったから、たくさんの発見があった

このほか、3年ごとのプロジェクトも立てている。

 

数年前に終えたのは、シェークスピアの全集をゆっくりと注意深くすべて読み直すこと。シェークスピアの次はバルザックの代表作『人間喜劇』シリーズに取り組んだ。

私は大学教授とかコンサルタントとか呼ばれ、時に「マネジメント(経営)の発明者」とも言われるが、少なくとも経済学者ではない。基本は文筆家だと思っている。

1939年にナチスドイツの本質を暴いた処女作『経済人の終わり』を書き、英首相になる前のウィンストン・チャーチルに書評で評価されたことで文筆家としての道が開けたのだろう。2つの世界大戦があった20世紀は波乱の時代だったが、私にはこんな幸運がいくつかあった。

初の日本訪問は1950年代の終わり。実はその時に日本文化との付き合いは20年以上に及んでいた。ナチスに追われてロンドンに住んでいた時、日本画に魅せられ、『源氏物語』も読んだ。

こんなに関係が深い日本の読者に私が生きた1世紀を語れるのは光栄である。

 

最も古い記憶は第1次世界大戦の勃発だ。何しろ生まれはウィーンで、そこは大戦の引き金を引いたハプスブルク帝国の首都だったのだ。次回はそこからスタートしたい。

 この連載は、2005年2月に日本経済新聞に連載した「私の履歴書」を再掲したものです。(以上がこの記事全文)

https://www.nikkei.com/article/DGXZZO02051940Z00C16A5000017/

 

                          つづく

 

(参考)

余子(26) 有能女子実践教育の場クラブハイツ
2020-10-07 

https://ameblo.jp/minaseyori/entry-12629834832.html

 

 

日経「私の履歴書」
https://r.nikkei.com/culture/autobiography