川田社長は新卒で入社早々、左遷で工場勤務でしたが、もしもそうではなく、入社時より皆と同じく本社勤務だったら、全く別の物語の展開と異なる結果となっていたでしょう。

 

(前回記事)

履歴書(21) セーレン㈱川田達男社長
2021-04-27 

https://ameblo.jp/minaseyori/entry-12671067645.html

 

「逆境があったからこそ」
2011/10/03 著 拙稿
前回に引き続き、1993年、セーレン㈱川田達男社長との懇談会の話しです。

 


セーレン㈱

https://www.seiren.com/

 

https://youtu.be/VusHJEplzas

        ★
 
繊維業界の全盛時代、彼は明治大学経営学部卒業後、倍率150の名門・福井精練加工㈱に入社。

その新卒研修期間、この企業は単なる下請企業に過ぎないことを痛感。この染色賃加工業では何れ滅亡するとのレポートを提出。メーカー志向ですね。
 
生意気な奴として異端児扱いとなり、新卒の中で彼のみが染色工場に配属される。他の新卒者六名は全員、本社配属なのに。
つまり、入社早々、彼は左遷されたのです。


ここでの五年間、毎夜のように工員と酒を飲み交わし工場の実態を把握。
 
いつの間にか彼は押されて労働組合の委員長になります。
そこで会社に対して色々な改革を要望していくのです。
 
注)彼の経歴書に労働組合委員長という項目は何故か見当たらない。確か彼は先頭に立って赤い旗を振ったと言っていたはず。

 

1975年、営業開発の課長就任。

実は、ここは窓際族の部署。

メーカーから発注書を貰うだけで会社は飯が食えていたから新規顧客開発は不要。
 
然し、彼はここで同じく窓際族の部下二名と共に顧客開発をし、繊維の染色に関する色々な注文をとってきて工場で生産する。

無論、工場の管理部門や本社には内密に工員たちが動きます。

 


 
或る日、トヨタ自動車では座席シートカバーに繊維を使用しないのは、繊維では耐久性が無い故との話を聞きつけます。

注)それまでは塩化ビニールを使用。
 
彼は繊維の座席シートカバーの試作品を作ろうとするも上司は許可せず。「俺の目の黒いうちは、試作などはさせない」と言って。
 
それにも拘らず、彼は原糸の調達や生地を織る関係先の会社を熱意で説得。工場では「川田の為なら」ということで、早朝や深夜、会社に内緒で生地に染色。無論、時間外賃金なしです。
 
耐久性のあり然も感触の良い座席シートカバーを開発。トヨタの望む生地を作るために工員たちの時間外無料奉仕が続きます。

 

紆余曲折を経て1976年、トヨタに出荷が始まり、大ヒットとなる。
換言すれば、単なる染色の下請けからの脱皮の序です。

 

1979年(S54)製品営業部部長
1981年(S56)取締役部長
1985年(S60)常務取締役(末席)
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繊維業界は70年代以降、斜陽化が進み、80年代に入ると安い海外製品に押されます。構造不況です。

旧経営陣は何等手を打てず。


1985年、常務取締役に就任の頃、既に会社は大きく傾いていました。1983年5月期から三期連続で経常赤字です。

彼が社内の反対を押し切って開発した自動車用シートカバーだけは大きく伸びていましたが、会社そのものは倒産寸前の状態。


創業家出身の社長は倒産の覚悟をします。
銀行がセーレン㈱を見放したのでした。
 
微かな希望があるとすれば、それは反骨精神旺盛な彼に会社を任せることぐらい。

 

他方、どうせ倒産するから、彼に倒産処理をさせようとの意図も見える。彼なら労働組合を抑えられますから。
 
創業家出身の社長は、彼の社長引受条件「旧経営陣の退陣」を呑みます。彼に言わせれば 「創業家は私に責任をとらせた」。

 

そして1987年(S62)8月、47歳の川田代表取締役社長が誕生したのです。

 

直ぐに彼は増資を行い、他方、銀行と交渉し、大借金をします。

彼の企業の未来への熱意と不退転の決意が銀行を動かしたのでした。

 


 
その資金でビスコテックスを目指す新工場を建設したのです。

注)ビスコテックスとは→http://www.seiren.com/products/visco/
 


以上が、私の記憶にある1993年の川田社長のお話です。私達が会った当時の川田社長は、ひたすら前へ前への時代でした。

 


 
注)社員のやる気を引き出す「よく見つけたね運動」が軌道にのるのはその後のこと。


注)世間をあっと言わせたカネボウの繊維部門のM&A(買収)は2005年。彼の「経営哲学」や「人生哲学」が大々的にマスコミの記事となるのはそれから。

 


 
川田社長の熱意溢れたお話が終ってから私達の質問の時間となりました。
 
最初は川田社長の熱意に圧倒された余韻で、シーンとして誰も質問を出来なく、皆が私に目配せしましたので敢えて私が質問しました。

 

 

皆が私にフルサト工業㈱社長 古里龍一氏の講演の時の私の質問の二番煎じを期待していたのです。

 

履歴書(20) 伊丹十三監督『あげまん』
2021-04-26 

https://ameblo.jp/minaseyori/entry-12670864302.html
フルサト工業㈱社長 古里龍一氏の講演後、質疑応答での私の質問 「古里社長にとって、女性とはどのような関係だったのですか?」

 

このセミナー参加の私以外の25名の皆さんは経理や総務など管理部門所属ですから質問でも慎重なのかも。

 


 
この時の全体の質問は6個だと思います。
その中の3個が私でした。

 

処が、私は自分のした質問の内容は記憶にあるのですが、川田社長の回答の内容は記憶に無いのです。でも、確か、川田社長と同じ考えだったと思います。

 


 
私の質問
 
その1)
新卒で入社の頃の左遷の工場勤務での下積み時代があったからこそ、全体を知り、そして社内人脈が出来たのではありませんか。
 
その2)
私も30歳の時、東京支店に転勤。東京支店長から「君の部署は潰してやる」と言われました。私は、こんな奴に負けてたまるか!と思い、逆に燃えました。
 
社長も、新卒や課長時代、上司に虐(しいた)げられたからこそ、それがバネとなったのではありませんか。
 
その3)
ランチェスター戦略の青木氏のデータによれば、福井県は日本の上場企業の中で最も多くの社長を輩出している県ですね。

 

京都市内の銭湯経営者の大半は、北陸の福井・石川・富山出身でした。京都人は重労働で然も小銭の銭湯代を集める日銭商売をバカにしていました。


参考)大阪は京都と同じ。

他方、東京での銭湯経営は新潟県人が半数。
 


福井県人はこのシビアな金銭感覚と堅実さ故に社長輩出が全国一でしょうが、社長の決断は、福井県人としては異質なものではありませんか?
          


 

以上が私の三つの質問でした。
                      つづく

 

履歴書(23) 昭和の女子工員たち

2021-05-05 
https://ameblo.jp/minaseyori/entry-12672519456.html

 

テーマ:私の履歴書抜粋
https://ameblo.jp/minaseyori/theme-10112410386.html
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