残念ですが『第八回 植民地支配の根性まだ抜けていません』の最後の一章を掲載出来なくなりました。突然、転載している出版社のサイトが閉じられたからです。2008/10/07

(前回記事)

在日(5) 京都の部落問題について
2020-06-06

https://ameblo.jp/minaseyori/entry-12602235038.html

 

(前々回記事)
在日(4) 玄順任:共産京都を創った在日
2020-05-17 

https://ameblo.jp/minaseyori/entry-12597549936.html

さてさて、在日の彼女達が投票権が無くても一生懸命駈けずりまわった選挙。戦後の京都を語る上で欠かせないのが在日、部落、共産党、高山市長と蜷川知事ですね。

1950年(S25)2月8日 全京都民主戦線統一会議(民統)推薦の高山義三(たかやま ぎぞう)京都市長当選。


同年4月20日 全京都民主戦線統一会議(民統)推薦 蜷川虎三(にながわ とらぞう)京都府知事当選。

 

高山市制は、その後1966年(S41)までの16年間続投。

他方、蜷川府政はその後28年間の1978年(S53)までも続投。

この両名の首長により、良きも悪しきも今の京都を創ったと言えるでしょう。

 

他方、私が京都に来てから四年後の1968年(S43)参議院選挙の京都地方区で初めて共産党員(河田賢治)の当選で京都の街に衝撃が走りました。


(一旦は落選と伝えられながらも翌日昼過ぎ当選確定。

翌年の第41回総選挙でも共産党員寺前巌が初当選)
 

尚、共産党、在日・帰化人、部落が主流を占める2008年前後の京都市職員の不祥事(犯罪)に象徴される市役所内部の腐敗に関しては、詳細なサイトがあったのですが、今は削除されています。

 

その実態はどうであったのかは、私の体験記(履歴書)からその一部を紹介します。

 

先ずは、高山市長のことから。

 

2008/06/16 著
私の履歴書・81

《当時の京都高山市長宅訪問》

バタヤンが、「市長の自宅に集金に行くから付き合わひんか」
1965年秋、又は1966年春の事だと記憶しています。

市長の自宅の門をくぐって案内されたのが30畳程のフローリングの部屋。


部屋の四方の壁際には応接用長椅子がズラリ。

 

イメージとしてはテレビで時々映る首相官邸の閣議室です。

我等の入室に、老いたにやけた顔の高山市長は、我等にも着席を勧めました。


四方の壁際に座っている人数は30名強。

びっくりしました。

座っている人達の先ずは服装。


柄のけばけばしいスーツ。

或いはスーツの下には真っ赤なシャツ。

いかにもそれらしき髪型。

変な靴。

目付きの悪さ。

 

ヤクザの親分の家に来たのか?と思いました。

 

更に驚いたのは、市長が座る皮の長椅子には、厚さ30㎝程の札束が数十個。


市長はその札束をむんずとわし掴みし、両手で近くの人に投げるのです。

遠くの人には、名前を呼んで、目前に来ましたら、同様に投げるのです。


但し、投げる前に、都度、その札束から2~3枚の札を抜いて。(当時は千円札)

抜いた札が25枚になりましたから手招きして我等を呼び寄せ、我等はそれを受け取りました。

 

私は、帰りしな、改めて表札を見ました。

間違いなく「高山義三」(たかやまぎぞう)と墨で書かれていました。


市長選の何ヶ月か前の事でしたから、選挙資金の配布でしょうか。尚、高山義三はこの選挙には出馬せず勇退となりました。

この話を、1993年頃に、京都府4区衆議院議員・野中広務(のなかひろむ・2003年政界引退)の後援会長をしたことのある人の息子に話した事がありました。

「同じだよ。うちは小さい時から柄の悪い連中がしょっちゅう出入りしていた」との事。


京都の政界の裏は、ややこしい組織が主体で構成されていたのですかね。
 

つづく